この原稿の執筆依頼を受けたとき、その記憶のあまりの少なさに我ながら愕然としたものである。とてもではないが依頼された文字数を埋めるには例えどんなに修飾語、言い換え法を以ってしても叶わず、ムーンウォークで富士山を登らねばならぬ心境であった。
先ず、正面向きに方向修正をするために小生の両眼だけでなく、複数の眼が必要であると考え、更に当時、私の記憶の中で多方面で活躍されていた諸兄にお知恵を拝借したく、先日新宿の某高級居酒屋にて旧交を温めつつ話のネタを収拾した次第である。
そもそも我々の世代は皆様もご存知のように「団塊の世代」である。幼いころは今みたいにビルディングが林立しているでもなく、周りには畑や所謂原っぱが多く存在していた。そして近所には子供達が多数いて遊び仲間にはこと欠かなかった。塾があるといってもせいぜい書道か算盤で皆が行っているわけでもない。
そんな日常であったから、知らず知らずの内に精神的にも肉体的にも揉まれているのでタフでない訳がない。学校から帰ればすぐにカバンを放り投げ、外遊びに邁進した。多少怪我をしようが血を流そうが、そんなのは日常茶飯事であった。よく食べ、とは言っても現在のように食物の種類が豊富にあるわけではない、取り敢えず空腹の状態が続かなければよい、そしてよく遊んだ。その意味では現在の子供達は可哀想である。
また、よく学んだかといえば、小々口が重たくなる。私は28歳になるまで桜台に住んでいた。従って小学校、中学校とも開進第三である。中学校の時、進研テストなるものがあって全国的規模で実施された。私達の1年上の学年の女子生徒達がなんと全国でナンバーワンになったとかで先生達の喜びようは大変なものだったらしい。その張り切り具合で我々に接してきたものだから、勉強嫌いの人間にとってはたまったものではない。従ってよく学んだ、という記憶はさらさらないのだが、知らず知らずの内に色々なものが頭の中に詰め込まれていたらしい。勿論脳味噌がそれを拒否した人もいた。
そうこうしている内に高校受験となってしまった。当時は学区制が敷かれておりまして、都立高校を希望する人は、その学区内にある高校しか受けられなかった。
部活動のあと
私は、大泉高校を希望して受験したが、合格点に及ばず入学出来なかったが、たまたま都立高校の合格ラインには届いていたらしく、漸くここで鷺宮高校にたどりついた。
我々の学年は9クラスだったが、1年上は11学級だった。多分その上も似たり寄ったりの数だったと思う。また、1クラスは約55入なので高校全体では大変な生徒数だ。教師陣は、それをうんざりしてたのか張り切っていたのかは定かでない。
私は知らなかっだのだが、最初は1年の時のクラスで3年まで同じメンバーで進級させる予定だったらしい。ところが、私達の学年の先生達は若い、教育熱心な人達が多かったので途中から進路別クラスの編成に変更したらしい。
3年の時、1、2組は国立理系進学希望組、3、4、5組は国立文系進学希望組、6、7組は私立文系進学希望組、8、9組は就職希望組、といった具合である。
当時の女子において鷺宮高校は名門で、その美貌と性格と頭の良方(ホントかなー?)で各会社から引っ張りだこで就職には事欠かなかったらしい。また各学年に1人は東大に進学していた、と聞く。我々の学年にも1浪はしたが東大に進学した男子がいた。
教師の数もそれなりに多かったと思う。であるからして色々な性格、考え方の教師も当然いるのである。
例えば或る音楽教師:教条主義的にも思われるクラシック一辺倒でガチガチ。クラシックにあらずんば音楽にあらず、である。当時若者の開ではフォークソングやエレキバンドが流行していた。さあ、それを勿論認めないので、ある時その教師1人対流行音楽支持生徒多数で教室で丁丁発止やりあったとか。仕方なく文化祭でのフォークソングを渋々許可しかものの歌い方に関しクラシックの声楽的発声法を指示した。しかし急に言われてもクラシックを学んだことのない我々(実は小生もそのフォークバンドの4人の内の1人了あった)にはそんなこと出来る訳がない。その教師には申し訳なかったがハイハイと適当に返事をしておく他にやり過ごす方法がなかった。
或る国語の教師:「禅」に関する学識が深く、何かにつけ蘊蓄を傾けることを喜びとしていた。また生徒のことを心配事を放置してもけない性質で、ある生徒が他の学科で赤点のため卒業が危ういときその学科の先生のところへ生徒を連れてゆきいろいろ骨を折ってくれて、その生徒はなんとか卒業できた。
また別の国語の教師:晩婚であった非常なロマンチスト。授業の前に必ず百人一首の数首を詠み、その切なさ、哀しさ、思慕のデリカシーを自分の過去の経験を踏まえ生徒たちに問い聞かせることを至上の喜びとしていた。
ある数学の教師:生徒たちの学力をもっともっと上げたい、との思いから勤務終了後、大好きな般若湯を飲みながら恐らく同校の同僚と教育論を闘わし、その挙句二日酔いで薬缶の水を飲みながら授業を続けた。
もう1人の国語の教師:当時の名物教師でとても着物の似合うひと。いつも着物姿で教鞭をとる教師は東京広し、といえども彼女をおいて他にはいなかった。まだ例をあげればきりが無いので割愛するが、このような教師陣である。
であるからして、生徒達も良い意味でも悪い意味でも影響を受けない筈がない。だから我々生徒の中に個性的な人材は育つ。当時はその実態を表面化する人間は少なかったが現在に至って開花させているのに例えば政治家では海江田万里、美術・陶芸家では堀越千秋、
声楽家では遠藤美恵なる者がいる。
堀越千秋さんは自分の絵を教室に飾っていた
校舎の環境でいえば、プールは無かったが、ゲーテの森なるものがあり、その横には生徒会室や部活のための1棟があり、人生を語り、文化を育む良い環境があった。今でもそれは形として残っており懐かしさがこみ上げてくるが、建物の方はどうやら使用されていないらしい。また、今では考えられないがフォークダンスが人気があったみたいだ。「あー、次は恋する彼女の手を握れる」と思っていたらそこで終了してしまって悲しい思いをした、と新宿で飲んだうちの1人は涙ぐみながら語っていた。校門には元警察官の門番がいて、下校時になるまで一歩も外にだしてくれなかった。
鷺宮高校の伝統と文化について一筆書いてくれとの要望であったが、とてもとても難しい。
敢えて伝統といえば、教師陣の多様性にあるかもしれない。敢えて文化といえば、IQの高さを追求するのでなく知識の醸成、知恵の柔軟性、心の寛容性にあるのかもしれない。