その旅は、モスパックといって、ナホトカまで船一晩、そこからハバロフスクまで汽車一晩、それから飛行機でモスクワヘ、そこで一泊した後、各自ヨーロッパ各地へ発つ、というものだった。
ナホトカからハバロフスクまでの車中の朝食で、ヤマハ兄弟と呼ばれていた二人の日本人がさわいでいた。おそろいのジャンパーの背中にヤマハと大書きされていたからである。その一人が日本人のテーブルの問を巡って歩いては、「やーい、やーい、あッ、こいつも、こいつもだ!アハハハ!」
とはやし立てるのである。何のことかというと、卵立てに立てたゆで卵を食べるのに、日本人は皆それを一旦とり出して、机の角か何かで割って手でむくが、それは正しくない、というわけであった。正しくは、卵立てにたててまま、上半分をスプーンで割って……ということらしかった。ヤマハ兄弟のあまりのブリミティブさに、同室の宮崎君は、
「ケッ」
と言って目をそむけた。
ハバロフスク駅に着いて、ホームに降りたとき、僕たち外国人は、現地の少年たちに囲まれた。少年たちはしきりに、上着の胸ポケットにささったボールペンだの、旅行社でもらつたバッジだのを指して欲しがるようにするのである。で、僕はそんな小物のひとつを彼らにやっと。すると宮崎君はそれを見とがめて言うのだった。
「ものをやっちゃいけないんだよ。それは彼らを軽蔑していることになる。五木寛之を読まなくっちゃダメだ」
そうか、と僕は下を向いた。何だかつまらない、きゅうくつな思いがしたが、一理あるような気もした。さて、今ならどうするか。……ケースーバイーケース、でしょうな。
モスクワヘ着くと、ホテルの前にさっそくヤマハ兄弟が立って、道行く人々に何か配っている。見ると、それは汚い五円玉であった。日本でも見たことがないほどに、それらの五円玉はさびて、黒ずんでいる。ビニールの袋一杯につめたそれを、ひとつずつ収り出しては、モスクワの人々に手渡しているのである。
「何してんの?」
と問うと、兄弟は答えた。
「穴のあいたコインてのは、外国じゃ珍しいんだってよ。だからたくさん集めて、塩酸につけてきれいにしたんだけど、そのまま乾かしたから、さびてこんな色になっらやったんだよ。
でもここじゃ珍しいから、皆よろこんでくれるかなと思って」
僕は宮崎君と一緒に、恐る恐るホテルの近くを散歩した。彼は、モスクワの冷え冷えした初冬のような(初夏なのに)空気の中を、あいかからずつっかけで、ズルズル歩いた。それは、日本の家から散歩がてら、気楽に気負うことなく外国、いやガイコク、にやって来たのさ、ということを演出するには、ちょっと惨めな眺めだった。しかし、あのころ、ガイコクとは、気負いなしに行けるところではなかった。友人探しの男にしても、ヤマハ兄弟にしても、宮崎君にしても、みなそれぞれに、最大の知恵をふりしぼって、気負っていたのである。
僕だって、ふだんはジャンパーなのに、新しい上着を、母にむりやり着せられて(〝ヨーロッパ'でも恥ずかしくないように)出てきたものである。
その後、八ヶ月ほどもヨーロッパのあちこちを放浪して、僕も上着もくたくたになって帰国した。
そうしてニ年後、今度はナホトカからモスクワ、ベルリンを経てマドリードまで、全部汽車で旅することになるのである。
『絵に描けないスペイン』(幻戯書房)より