マドリード市内を移動するのに便利なのはメトロ(地下鉄)である。 が、時としてアルジェリア難民の若者達の強盗団に出くわすことがあるので、ホームでも乗り込む車両でも注意をせねばならぬ。気が疲れる。で、タクシーによく乗る。市内なら五、六百円で大ていのところへ行ける。
雨の夜、やっ空車がとまった。 アトリエがら家へ帰るのである。
「ノルテのバス乗り場まで」
「オーケー。ところでそのバスでどこまで行くの?」
「アルコルコンだよ」
マドリードから十三キロ離れたその町に、私の住居がある。そこまでバスで帰るのである。
「バス乗り場までいつもタクシー代いくら払う?」
いろいろ妙なことをきく運転手である。
「五百ペセタかな」
「そうか、じゃ五百でアルコルコンまで行こう。どうだい? 実はおれもそこに住んでいるんだ。 今夜はもうあがりさ」
「いいのかい? やあ、運がいいな」
と私は喜んだ。よく見れば、運転手は鼻歌でも歌いそうな陽気な若者である。
「君は日本人か? おれはポーランド人さ」
「へえ、珍しいね」
「珍しかないよ。出稼ぎは沢山いるよ 日本に比べりゃ近いんだから。おれは是非日本へ行ってみたいんだ」
いたずらっぽい目が、バックミラーからのぞいている。
「へえ、何で?」
「おれの夢は日本の女と結婚することだったんだ。何故かわからないんだけどね」
「でも君はもう他の国の女と結婚しちまった……」
「そう。スペイン人さ」
「不満かい?」
「いや。でも日本人と結婚したかったって夢は本当さ。女房にもそう言ってるよ」
「怒るだろう?」
「怒るよ。でも夢だからね」
「奥さんはどこの人?」
「ドレド県さ。トレドの女は大変だぜ! ま、他のスペイン女と同しだけどな。 ところで、日本語で“ジョ”のこと何ていう?」
「ワタシ」
「“カサード”゜のことは?」
「ケッコン(結婚)シテル」
「“エスクラボ゜は?」
「ドレイ(奴隷)」
「ワタシ、ケッコンシテル、ドレイ!」
仏はゲラゲラ笑ってしまった。発音もいい。 雨の街道を飛ばしながら、彼は繰り返し叫んだ。
「ワタシ、ケッコンシテル、ドレイ! ワタシ、ケッコンシテル、ドレイ!」
車を降しりる時、彼は笑いながら握手を求めてきて、言った。
「おれの名はスタニスラフスキ-。 いや、もちろんおれは女房に満足してるんだぜ」
「わかってるさ。 じゃまた、スタニスラフスキー君」
『赤土色のスペイン』弦書房 より