ピカソはかつて、「世界に真の芸術を作り出したところが四つある。 それはアフリカとオランダとスペインと日本だ」と言った。
アフリカの黒人彫刻、オランダのゴッホとレンブラント、スペインはベラスケスやゴヤそして御当人を指すと思われる。では日本は誰かしら?
答は別に必要あるまい。ピカソの意見である。皆さん自身で、考えてみるがよろしい。
むかしの日本は、ピカソが讃嘆するばどに素晴らしい美術を生んだ国である、人々はちゃんと自分自身の眼を開いてものを見ていたにちがいない。
しかし、このごろの日本人はどうだ? ちっとも自分の眼でモノを見ない。どういうことかというと、たとえば例の「ブランド崇拝」。「ブランド」を支えるものは、眼ではなく、耳である。「これは大変高価で、何々女王とかハリウヅドの誰それも御愛用なんですって」
「こちらの画家は芸大を出て、○○賞を史上最年少で取って、将来有望なんですって」
「ですって」の世界だ。つまり耳で聴いた情報にすがるのだ。
「値段」もそうだ。「これって八百万円もするのよ」と、耳できくことで、目の色がかわる。
美しいものを見た途端に目の色がかわる、というのが本当の眼ではないか。そんな裸の「眼」をもつ人が、何人かいるか?
たちどころに値段を言い当てる「鑑定眼」のことを言っているのじゃありませんよ。
好き嫌いでいい、正直に感じる眼のことです。
「ブブンド」も「グルメ」も耳で話を仕入れ、舌で味わう“眼”は必要ない。
今の日本人の旅行のテーマはこのニつである。
パリや香港に行っておいしいものを食べてブランド品を買って帰る。
「眼」は使わない。まるでナメクジの旅行である。
国内ならばブランドの代わりに温泉となる。こちらはナマコ。
だったらせめて提案がある。国内の美しい絵葉書を作りなさい。日本の不思議は、「村おこし」と言いつつほとんどバラ売りの絵葉書を見かけないことだ。景色は自慢じゃないのか?無理に掘った温泉と無理に作った名物料理。少しは美に、“眼”を開きなさい。
「人の上は空である」西日本新聞社刊 より