大川先生は、昭和22年(1947年)に東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)を卒業されると同時に、東京都立鷺宮女子高等学校(現都立鷺宮女子高等学校)に理科(生物)の先生として着任され、昭和61年(1986年)の定年までおよそ40年間ずっと鷺宮高等学校に奉職された。以下は大川先生が自らお書きになった自分史「ち津る記」から鷺宮高校の部分を抜粋させていただいたものである。
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1 都立鷺宮高等学校の教諭になる(1) 女高等を卒業してすぐ、中野区にある都立鷺宮高等学校の教諭になった。管理職になる意図がなく、積極的な異動活動をしなかったたため、約40年間、本来やりたかった「植物に関わる仕事」を存分にやらせてもらった。
2 国立科学博物館主催の植物観察会に参加(1) 昭和26年(1951年)に結婚した大川信明は、「結婚しても女性は仕事を持つべきである」という考えをもっており、家事にも非常に協力的な人であった。
彼が国立科学博物館主催の植物観察会への参加を勧めてくれ、これが植物分類学への道を切り開くとともに、後にライフワークとなる植物検索への道筋をつけてくれた。
(2) 昭和26年(1951年)9月はじめ、その観察会で山梨県の三ツ峠(1786m)に登った。「定員まで若干余裕があるから、希望者は申し込むように」というラジオのニュースを聞いたことがきっかけである。三ツ峠の山頂付近の広大なお花畑の美しさに完全に魅了された。
(3) この三ツ峠観察会をきっかけに30余年、観察会には欠かさず参加した。もし、ラジオのニュースが耳に入らなかったら、科学博物館と植物にのめり込んだ私はいなかったであろう。
(4) 生物科の教師の傍ら、博物館の先生や仲間と、あるいは1人で、時には主人と野山をよく歩いた。親しく植物に接して名前を教わり、また図鑑で調べる。
名前が分かった植物とは、すぐ友達になった。道はたにも、海辺にも山の頂にも友達がいっぱい。「自然というのは、ほんとうに豊かで楽しいもの」という思いが深まっていった。
3 生物部の夏合宿が始まる(1) こういう思いを生徒と分かち合いたいという願いも、同時に抱くようになった。
(2)生物部の夏合宿を始めたのは昭和33年(1958年)であった。山梨県と長野県にまたがる八ヵ岳を皮切りに、秩父金峰山、野反湖、菅平と戸隠山、苗場山と妙高山などなど、部員と共によく歩き、植物を楽しんだ。
4 夏合宿での生物部員の協力(1) 生物部の合宿では、「いろいろの特徴を示しながらしゃがみ込んで(歩きながらでなく)植物の名前を教えてくれた」と、部員たちは□を揃えて言っていた。
(2) 野反湖では、私かカモシカ平のニッコウキスゲの花盛りの中に座り込んでしまったので、「先生、早く出発しないと!」とOBから注意された。
(3) こうした中で生徒が植物の名前を自分で調べられたら、どんなに素晴らしいか。そういう思いが私の心の中に芽生えていった。
5 教員研究生になる(1) 昭和55年(1980年)度に教員研究生になる。 54歳でその年の研究生のうちの最高齢であった。
(2) 教員研究生の間は、国立科学博物館に派遣された(内地留学)。研究テーマは「植物分類学習に関する研究」であったので、先ず「高尾山の植物検索カード」(当初は[同定カード]と呼んでいた)を作成し、続いて「多摩川の植物検索カード」を作成した。
6 植物検索カードの構成(1) こうしてできた植物検索カードは、携帯に便利な葉書サイズで、以下のに(2)~(4)の順に重ねる。
(2)「表紙」は、カード名(校庭など、どの地域でそのカードが使えるかという地域名を書く)とカードの使い方の説明等を書きこむ。
(3) 「植物一覧カード」には、カードで調べられる植物名を書き、各植物名の横か下に穴を開ける。
(4) 「特徴(形質)カード」は、1特徴につき1枚作成し。
木や草、葉の形、花の形など、各特徴の図を描き、その特徴を持つ植物の位置に穴を開ける。
7 植物検索カードの使い方(1) 名前を調べようとする植物の特徴をよく観察し、その植物が持つ特徴のカードを、何枚か取り出して重ねあわせ、「穴が通った位置にある植物の名前」が答である。
検索例:木である+切れこんでいる葉をもつ+葉のふちがぎざぎざである+羽のある実をつける。→これらのカードを重ね合わせ穴が通ったら正解。この場合はイロハモミジである。
備 考:「穴が通る」面白さ!「穴が通った位置から青空が見える」=感激!である。
(2) 「作ったカードが本当に使えるか」を確かめるために、生徒を集めて検索実習を行った。
8 高尾山、多摩川でのカード検索実習の生徒の感想(一部)、註は大川
(1) 雑草にも名前があるんだね。
註:「名もない草なんてない」ということを実感したこと。現在は「野草」と言うように勧めている。だって「雑」なんて言ったらかわいそうでしょ!
(2) カードには項目ごとに違う色の紙を使うとよい。
註:カードは最初はケント紙などの白紙を用いてきた。
項目ごとに色を変えた生徒の先見の明に脱帽である。
(3) このカード、先生のライフワークになる!
註:「植物の名前を自分で調べることができる」ということは、生徒にとって喜びであり、驚きでもあったようである。特に「穴が通る」ということに、私か予想もしなかった大きな関心を示した。しかも、その穴を通して青空が見えるのであるから、彼らの喜びは頂点に達したと言っても過言でなかったろう。
9 植物検索カードとコンピュータ(1) カード検索実習の感想に「マイコンの登場を望む」というのがあった。カードからコンピュータを連想する生徒が意外と多かったのである。
(2) たとえば、形質カードは、その形質を持つ植物の位置に穴を開け、それを持たない植物の位置には穴が開かない。すなわち「1かO」ということになる。
このことは、コンピュータのシステムが分からなくても直感的に感じ取れるらしい。実際にカード検索実習に参加した女子が、「コンピュータがするようなことを手作業でするのは面白い」という珠玉のような意見を寄せてくれた。
10 植物検索カードから植物検索プログラムヘ(1) 植物検索カードをプログラムヘ発展させて、生徒の希望をかなえた。
(2) こうして昭和57年(1982年)度は「植物同定カードのコンピュータ化」、58年度は「植物同定のコンピューダ化」に関する研究を行った。作業は当時の慣例となっていた「週1日の研究日」をフル活用した。
11 教室でのプログラム検索実習(1) カードに興味を示した生徒は、コンピュータにどう反応するだろうか。生徒は教室にコンピュータが登場したのを見ると、歓声をあげる。次には決まって「ゲームをしよう」とくる。
「はい、植物の名前あてゲームですよ。ゲームと言っても、それには特別な神経がいりますよ」と前おきして、実習はコンピュータの使い方から入る。
(2) 大半の生徒は、コンピュータに触るのも初めてなので、「一度はキ-を押してみること」を徹底させた。
こわごわキーを軽く押したため、画面に「何も」出てこなかったり、慎重にキーを押しすぎて、同じ数宇がたらたらと並んだり等々、キ-の押し方一つにしても、「やってみなければ分からない」と実感したであろう。
(3) プログラムは、画面にメッセージが次々に出て、それに答えながら検索を進める「対話型同定」である。
生徒は画面にメッセージが出てくると、いっせいに読み出すことがあった。また、「声が出て、メッセージを読んでくれれば一層よい」と言う意見もあった。
「コンピュータから声が出る」ということは、現在では当たり前のことであるが、当時の発想としては、画期的なことであった。
(4) 最後に「ズカン デ シラベテ …… 」というメッセージを出す。おや!と目を見張った視線の先は、「ドカン デ シラベテ …… 」となっていた。
こういう場合、私はどっちを向いて注意したらよいのであろうか。
12 パソコンを校庭で使う検索実習(1) 一番簡単な植物検索プログラム「KOUTEI(校庭の植物の種名調べ・スタンダード版)」をパソコンにインストールさせ、校庭の机の上に置く。
(2) 「先生!このコンピュータ、どこからもってきたの?」と生徒。「先生が買ったの」と私。生徒はすかさず「リッチ! リッチ!」という。生徒の反応は面白い。
13 定年を迎える(1) 鷺宮高校で生物の授業にコンピュータを活用する基礎固めができた頃、私は60歳の定年を迎えた。
(2) 大半の人が選ぶ嘱託の道は、私には無縁であった。
最後の授業のクラスからお花のプレゼント:スイトピーとカスミソウの花束!
14 おわりに(1) 私は現在86歳。これからも少しでも多く仕事を続けたいと願っている。
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平成23年(2011年)12月、私と友人は先生のお話をお開きするため文京区のご自宅にお邪魔した。パソコンを手から離さず植物分類の検索ソフトを作ったときのお話を目を輝かせてお話してくださった。その姿は、遠い昔に夏季教室で妙高山に登った際に生徒と一緒に登りながら、道の傍らの植物一つ一つを丁寧に解説してくださったときとまったくお変わりない姿たった。植物にあまり関心がなかった私は、申しわけないことにその時教えていただいた植物の名前は忘れ果てた。しかし、その時の楽しそうな先生のお姿はいまも心の奥底に生きている。
先生は学校退任後も研究に没頭され、79歳で「種子植物の検索教材の開発」で博士号をとられた。今年87歳になられる。
(担当 昭和42年卒 小室 恵子)