100年を機に「鷺高新聞」ぜひ復活を!
手元に「鷺高新聞」の第35号から第90号までがある。年代でいえば昭和32年から43年の約11年間であり、鷺高100年の中でのわずかな期間であるが、紙面をみれば「歴史を刻む」内容であり、このまま「100年史」の一部にもなろうとする内容である。このうち私か在学し、学校新聞の編集に携わったのは昭和35年から昭和38年の3年間である。 中学の時代に新聞部をやっていたもので、「当然に」新聞部に入っでしまった。某運動部にも入っだのだが練習の厳しさにたえられなくて脱退。以後現在にいたるまで新開の制作に魅力を感じ、胸が騒ぐ気持ちで「アマチュア新聞」にかかわってきた。 過去の鷺高新聞をみてます感じるのは、これだけのボリュームの内容をこれだけの頻度でよく発行をしたものだ。発行間隔が2月の時もあったし、記事によれば編集開始から配布まで2週間という早業をやったこともあるとか。学校新聞としてこれだけのことをやったことにいまさらながら驚きである。確かに編集作業にあたっては毎日のように部室に通い詰めであったし、印刷段階になれば渋谷・南平台におった印刷屋(エム・ケー印刷)にいって校正作業をやったものだ。 印刷屋のおじさんがゲラができると大声で「おーい、サギー」と呼んでくれたのはよーく覚えているし、おじさんのお顔も目に浮かぶようだ。広告とりも大切な仕事で都立家政駅周辺のお店はもちろん、新宿あたりまで広告をいただきにあかっか。 もう一つ感心させられるのは実に幅広い内容の記事を網羅していることだ。学校や先生方の情報もたくさんあり、編集にあたっては先生方のご協力はもちろんいただいたはずであるが、主体はあくまで私たちであった。学校という狭い限られた空間の中でそれなりに幅広く歩き、話し、聞き、書きをしたと思っている。 在学中に「コローの森」にクラブハウスが完成、角に新聞部室ができ、活動の拠点となり大変便利になったものだ。毎日授業のあとにはこの部屋に立ち寄り、仲間だちとしゃべりあったのを覚えている。 理屈を述べるより、なによりも現物の新聞をみていただきたい。5ページにわたって紹介をするのでぜひ読んでほしい。あらためて新聞部の基礎を作っていただいた先輩方、そして継続して発行に尽力していただいた後輩の皆様に深く感謝をしたい。 最近知って驚いたことだが、なんと今「鷺高新聞」が発行されていないそうだ。どうしてこんなことになってしまったのかは置くとして、在学生の力でぜひ復刊してほしいと思っている。学校新聞は必ず学校の活性化につながるし、情報の共有で先生生徒それぞれの交流も和やかになることだろう。そして何よりも新聞を[作る]喜びと苦労を味わうことは素晴らしいことと思っている。 今年11月には創立100周年の記念式典が開かれる。新聞編集に参加していただいた懐かしい仲間にぜひお会いしたいものと思っている。「聞友会」という集まりがあって部員、OBの語らいの場になっていた。 これもぜひまた開きたいものである。在学中に創立50周年の行事があり、今年創立100年を迎える。健康で、豊かでないとしても一応安穏な人生をすごしていることは、鷺高でのクラス仲間、新聞部仲間との熱い仲間意識が与える影響が決して少なくなかったものと思っている。
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