フラメンコと闘牛には共通点がある。どっちも「オレ!」とかけ声をかける。「オレ」とは、もともとアラビア語の「アラー」である。「神」だ。
素晴らしいものに出会った瞬間、人知をやすやすと超える瞬間、そんな時スペイン人なら「オレー!」と叫ぶ。
日本人にもその感覚はある。たとえば、相撲で、弱い方が思いがけなく横綱を投げとばしたりした瞬間。まさに「オレ!」だ。
しかし、闘牛の技のどこが「オレ!」に値するのかは、相撲ほどには簡単ではない。勝敗はないからだ。
美は一目で分かる。しかし、そのためには、訓練が必要である。「美とはひとつの訓練である」と小林秀雄は言った。訓練なしに分かる美は、ヽ子供も大好きなアメやチョコレートだ。しかし世界はもっと豊かな味覚に満ちている。やがて大人は苦みや渋みを味わえるようになるではないか。
さて、フラメンコというのは、スペインでは、常識として、歌(カンテ)のことだ。踊りはバイレという別物である。日本人は、フラメンコというとあの千情熱の踊り」をイメージしてしまう。しかし、それは民謡の盆踊りのようなもので、ほんの一部でしかない。
フラメンコの本場アンダルシア地方では、真夏の夜に、各町村で「納涼フラメンコ大会」が催される。校庭や闘牛場に舞台をつくり、イスを並べて、数百から千人単位の町民、村人が家族連れで集まって、夜11時ごろから始まる。出演者はプロの歌い手たち、カンタオールだ。おおむね10人ほどが順番に、ギターの伴奏で明け方まで歌ってゆく。踊りは、ない。せいぜい中入りの息抜きに1人だけ。あるいは、速い曲のラストに歌い手の興がのって、自らイスから立ち上がつて踊り出すか。
今は亡き、天才カンタオーノレ、テレモート・デ・へレスが、ロンダのフエステイバノレのラストで、快速調のプレリアのリズムにのって立ち上がり、軽く両腕を上げて、すつすつと小粋なひとふりを見せたとき、観客は皆口を開いて喜び、「オレ!」と叫んだ。
ほんの10秒に満たない、こうした瞬間にこそ、「渋」が醸しだされる。」ひょい、とその太った体がゆすられる一瞬の出来事なのだ。見逃したら美はない。
もちろん、カンテにも「渋」と「美」は各所にちりばめられている。カンテの美は、声が消えてゆく、その弱らせ方にこそある。大仰に言うとカンタオールの人生の味わいが出るのだ。技術的に巧みなだけで真実昧のないカンタオールが、上手にやってのけても、心ある客は白けている。お世辞にも「オレ!」なんて言わない。
カンテは伝統的な形式を持っているので、美のあるべき箇所はおおむね決まっている。しかし、それをうまく踏襲しただけ人でなければ出せない、新しい発見を示してくれなくてはダメだ。アタマや小手先でこさえた作り物の新しさではダメだ。
昔、エンリケ・モレンテという人気カンタオールが、工夫してこさえたソレアの曲を歌った時、彼の故郷グラナダの観客は「フェラ(ひっこめ)!」と叫んで、実際に彼を引っ込めた。フラメンコの母といわれる古曲ソレアがアタマで喋踊(じゅうりん)されるのに耐えられなかったのだ。
では、カンテの真実味とは何か?
それは貧しいアンダルシアの、貧しい人々だけが持つ、真っすぐの生命力である。金持ちは、他人の分までを持っている人々である。こういう人が、なぜ魂の叫びを叫べるであろうか?金持ちのキリスト、金持ちのゴッホが、いただろうか?
マヌエル・アグヘータの歌う古いカンテを聴くと、まさにそう語る声がきこえるのである。
朝日新聞GLOBE より