絵の留学生としてスペインに渡った僕は、自慢するわけじゃないが、描写とかデッサンとかには、いささかの自信があった。
マドリードに着いたばかりのころ、小雨の日、ノリレのカウンターに立ったまま、一人寂しく昼食のボカディージョ(スペイン風サンドイッチ)を食べていると、ジーパンをはいたスラリとした若い女性が入ってきた。
貧しい地区なので、質素ななりではあるが、暗い目をした長髪の美しい人であった。窓際に立って、外の雨を眺めている様子だった。ふと目が合うと、彼女はコップを持って近づいてきて、「オラ(どうも)」と言った。
僕はどぎまぎした。彼女の声は低いが、「赤を含んでいるな」と感じた。今風に言うと、これは逆ナンパされたということなのかもしれない。
どこから来たのか、何をしているのか、などと彼女はたずね、スペイン初心者の僕は必死に答えた。
「絵を描いているの?じゃあ、このノートに私の顔を描いてみて」と彼女はほほ笑んだので、手持ちのボールペンで“しっかり”描いた。つまり、写実的に、彼女に似るように。「まかせとけ」という気持ちだった。
出来たものを見せると、彼女は「これじゃあ、ただ見えるように描いただけだわ。もっとあなたの気持ちとか、心とかを描いて欲しかっだの」と言って、つまらなそうな顔になり、「アディオス(さようなら)」と言って出て行ってしまった。
あんなにガッカリしたことはない。
何が描写だ!何がデッサンだ!僕はそれまでの日本の画学生10年間の〝修行〟を呪った。
しかし、振り返れば、ベラスケスもゴヤも、みな修行はデッサンではないか。呪われるようなものではあるまい。
しかし、もう何だかよく分からないが、スペインに珍しい沈うつなムードの若い美しい女性が、僕のスケッチを見てつまらなそうに立ち去ってしまった、という事実は、1977年の若い僕を打ちのめした。
一本の線が、形が、人に何かを語りかけなければならないのだ。それが絵だ。美術学校のアトリエで身につけた技だけではダメなのだ。大事なのは「語る」ことだ。例えば、子供に向かって「ほおら、ゾウさんだぞぉ」と語りながら描くようなことだ。僕は彼女に語れなかったのだった。
当時の僕の絵から現在の絵までを、今、東京で展示している。あの暗い目の美女に見せたら、今こそ何か言ってくれるかしら。彼女の身にも同じく35年が経っているわけだが。
朝日新聞GLOBE より