スペイン人の美意識はかなり保守的だ。特に食べ物の好みは、ドン・キホーテの昔からそんなに変わっていない。見知らぬ食物をすすめられると、スペイン人は、失礼にもまずそれをデカい鼻に持っていってにおいを嗅ぐ。
こういう保守性は、風景にも反映されている。いつも見慣れて美しいものこそが美しくて、それが変化することを望まない。だからこそ、どんなスペイン映画を見てもその背景は常に絵になっている。風景は自然に出来ているようでそうでない。人間がつくっているのだ。
その最たるものが、アンダルシア州都セビージャ(セビリア)の大聖堂の塔ヒラルダである。イスラム文化が、いかに繊細で高度で寛容なものであったか。天辺に乗せたキリスト教の尖塔(せんとう)さえも美しく調和している。その姿は貴婦人のように誇り高く、ドナルド・キーン氏(日本文学研究者)が言った通り、世界一美しい。
初夏のたそがれ、ジャスミンの香りが町に流れはじめるころ、金色の空にヒラルダが「美」そのもののようにそびえる。空中におびただしい数の岩ツバメがチーチー鳴き交わして飛ぶ。手にマンサユージャ(シェリー酒)の杯を持って口に含めば、ユーラシア大陸の東端から来て遥(はる)か西端のこの地で生が尽きても可なりとまでにうっとりするのである。
ヒラルダ賛美が絶頂を迎えるのが、キリスト教の聖週間(セマナ・サンタ)だ。昼夜を問わず丸1週間、キリストの死と復活に涙するのである。マリアやキリストの像を乗せたみこしが各教会を出て、町内を一巡して回り、人々は悔い改めのろうそくを持ってつき従う。
街角のバルコンからは、いと荘重なるサエタの独唱が、まるでイスラムの詠唱のように歌声に歌われ、人々はまた涙する。数トンもあるみこしを、罪のように肩に担う若人らは「コスタレーロ」と呼ばれ、汗と涙の塩味に青春の誉れを味わうのだ。
かくも熱狂的で原始的なマリアやキリストヘの偶像崇拝をカトリックは是としているのかいぶかしいが、善男善女らはその姿に涙し、みこしの台座にキスをする。
かつて、ある伯爵夫人は、それらのみこしが大聖堂を出てヒラルダを背に幽玄な歩を進める、その「アイケモリール(死んでもよい)」ほどの美を力説するあまり、ヒラルダを一望できる宮殿の屋上に僕ら異国の貧乏人を招き入れ、マンサユージャを注いで回ってくれた。恍惚(こうこつ)として語り続ける美しい夫人が息を吸うわずかの問に、僕らはたじたじとなってそこを辞去した。
ヒラルダは千年余、常軌を逸した賛美の嵐を身にまとうて立っている。圧倒的な全イベリア半島的な聖週間は、本年も厳粛に催された。スペインの「美」はかくも自給自足なのだ。
セビージヤ人は、旅人に言う。「セビージャ見たことのない者は幸いである。セビージャを初めて見るよろこびが、まだ人生に残されているからね」
朝日新聞GLOBE より