生きること そして 死ぬこと
6月11日は、女房の大叔父(岳父の母親の妹の長男)が旧陸軍特別攻撃隊の一員として終戦の年昭和20年8月15日の僅か二か月前に、知覧飛行場を三機の戦闘機に分乗して沖縄沖に向かった日です。
大叔父は学徒動員で慶應義塾大学在学中に兵役に就き、飛行訓練に明け暮れ戦況が不利になる中、記録によりますと、土浦~調布~出水~知覧と戦闘機を操って転属し、最後は第56振武隊に配属され、6月11日、辛うじて飛行可能な戦闘機に五人の仲間と乗り込み出撃しました。
大叔父の母、その他縁のある者は土浦に見送りに行き、当時は貴重だったおはぎ、赤飯をふるまったそうです。跡取りの長男でしたが二人の弟がおり後を託して元気に旅立ったと聞きました。
特攻隊生みの親とされる高官が自ら「特攻自爆は外道の策」と称したことについては、今此処では語るまいと考えております。 「自己犠牲」は古くギリシャの時代から、チャーチルの率いたバトル・オブ・ブリテン、太平洋戦争にあっても特攻機で炎上する空母を沈めまいと、進んで消化活動に身を捧げた数百のバンカーヒル乗組員たちもおります。 大叔父も恐らくこの「自己犠牲」を選んだのだと思います。 当時の情報、世界情勢からみて、先住民族、日系人、アフリカ系、に対するアメリカ合衆国の差別・排斥行為は「負けたら我が国も隷属に成り下がる」と信じた学生も多かったと思います。
扨て、先日杉並で飲み会がありました。Yさんが二か月ぶりに出席。 90歳を目の前にして心臓にぺースメーカーを入れました。 私の他にもう一人現代医学の貢献を拝受した者が出たことに感激しました。 Yさんも出陣学徒兵の(言い方はおかしいのですが)生き残りです。
大叔父とYさん、同い年の二人の人生は私の中では交錯し重なり一つです。 Yさんに大叔父の分も生きてほしい。お酒も何もかも、大叔父がしたくても出来なかったことをYさんにやって欲しいと思いました。
知覧を飛び立った陸軍特攻機は、開聞岳(薩摩富士)の右側にルートをとり海軍特攻機(神風)は左側の噴火湾上空を飛んで行ったと聞きました。 沖縄沖まで二時間~二時間半の間、大叔父は何を思って飛んでいたのかそれを知りたくて、女房と知覧に出かけます。 翼を左右に振って国土に最後の別れを告げただろう大叔父の姿が目に浮かび切ないです。
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