正法寺にある鈴木其一の墓『酒井抱一と江戸琳派の全貌』
求龍堂 刊 より鈴木其一の作品を抜粋しました。
鈴木其一 すずききいつ
(寛政八~安政五年/1796~1858)
抱一の実質的な後継者。(寛政八年1796)四月、江戸中橋に生まれる。名は元長、字は子淵、号は其一、鸎巣、必菟(庵)、噌々(かいかい)、菁々(せいせい)、元阿、鋤雲、庭拍子、為三堂、祝琳斎。通称為三郎。
大村西崖著『東洋美術大観 五』(明治四十二年刊)に所収の稲垣其達(其一の弟子)の談話によると、父は近江出身で山本氏と伝え、江戸中橋で紫染を営んでいたという。其一は幼少より絵を好み、文化十年(1813)、十八歳より抱一の内弟子となった。
酒井家から抱一の用人(附き人)として仕えた鈴木頼潭(れいたん)1792~1817)の没後、鈴木家の跡目を継ぐためその姉りよと結婚、百五十人扶持の酒井家家臣となり門弟筆頭の実力者として抱一の信任を得る。抱一在世中は雨華庵の西隣に住み、その後は雨草庵にほど近い下谷金杉石川屋敷に居を構えた。最晩年には再び雨華庵近くに隠棲した。
日本橋の蝋油問屋大坂屋で勘定所御用達も勤めた松滓孫八(石居)をパトロンとして多くの制作を行い、石居宛ての141通もの書簡が遺されその次第の一端が知られる。
晩年には酒井忠学に嫁いだ家斉の息女喜代姫から医師格に昇進を許され、別途三十人扶持を賜ったとされる。嫡男守一、次男誠一。ほか四女のうち次女阿清は河鍋暁斎に嫁いだ。
安政五年九月十日、六十三歳で急逝二説にコレラとも云う)。
墓は浅草松葉町正法寺(震災後中野区沼袋に移転)。
其一ははじめ師抱一の画風を継承した作品を描いたが、師の没後、三十代半ばから四十代半ばにかけて「噌々(かいかい)」と号し、鋭い筆勢で鮮やかに描かれ、抱一門下時代の穏やかな画風から其一が新機軸を開いたことが明らかである。琳派の装飾的な要素と現実味のある精緻な描写が一体となった、明快で清新な様式を展開、他の江戸琳派の画家たちと一線を画した。天保四(1833)年二月から、京坂、姫路から太宰府に至る長期旅行をして、その記録を「癸巳西遊日記」に残している。
天保十三(1842)年版の『広益諸家人名録』に、其一の名の代わりに其一男として長子守一の名が認められ、其一四十七歳のこの時には既に守一に家督を譲っていると思われる。また前年の天保十二年には雨華庵二世の鶯蒲が三十四歳で早世している。酒井家家臣として補佐すべき鶯蒲を亡くし、家督も譲った其一は、五十代前後から「菁々(せいせい)」という号を使用し、のびやかにして力強く、時に近代を先取りするような作品を数多く手掛けた。晩年の其一はより自由な立場で筆を奮うことができたと思われる。 (岡野)
抱一に続く江戸琳派の画家の筆頭に、最初の弟子、鈴本蠣潭(れいたん)(1792~1817)が挙げられる。蠣潭は酒井家家臣として文化六(1809)年に抱一御附となり、抱一の身辺の世話をする傍ら、画業も手伝っていた。文化十四(1817)年に没したため、彼自身の作品は僅少だが、遺された作品からは確かな技量が窺われ、抱一の信頼厚き助手であったと思われる。
蠣潭が急逝した直後に鈴本家に養子に入ったのが鈴木其一(1796~1858)である。其一も酒井家の家臣として抱一を補佐しながら早くから優れた画才を発揮し、抱一没後は多くの弟子を養成して江戸琳派様式の拡大に貢献した。明快で筆勢に富む其一の画風は清新な趣に満ちており、特に「噌々(かいかい)」の号を使用する三十代半ば以降は師風を脱して光琳様式にも迫る、大胆で明快な作風に転じた。さらに「菁々其一(せいせいきいつ)」と称する晩年期には家督を嫡子守一(1823~1889)に譲り、より自由な立場で多様な作品を描いた。
文読む遊女図 一幅 細見美術館
其一の若描きに、師の抱一が漢詩・俳句による賛を寄せた師弟の合作。賛は房楊枝(歯ブラシ)を、先の広がっているその形から合歓の花になぞらえている(合歓は夜、花を閉じることから古来仲の良い恋人に例えられた)。朝帰りの客を見送った後の遊女のしっとりとした心情をとらえた作品である。
蝶に芍薬図 一幅 板橋区立美術館
柔らかくあでやかな芍薬(しゃくやく)の花に大きな揚羽蝶がふんわりと留まる。芍薬の細い茎や葉がバランスよくこれを受け止めている。全て暈しを利かせた淡彩の付立てで描かれ、のびやかな筆致で葉の先端まで丁寧に描く。落款の書体から、其一の初期作と知られる。賛は国学者で歌人の北村季文(1778~1850)により、「これもまた甘日へぬへき花の上にたハるゝ蝶のこゝろをそしる」とある。