「高校生をえぐる」新聞部 ―文化祭発表― 我々は高校生である。現代っ子と呼ばれ、大人と子供の中間で人間の成長過程で一番難しい時期だとされている高校生である。
また試験試験のあけくれの学校生活、クラブ活動や生徒会などをしていると一人置きさられられてしまうような環境である。また今の世の中で絶大な力を持っているマスコミが取り上げる高校生は、みゆき族だとかアイビー族だとか、タバコを吸ったりお酒を飲んだりお化粧したりするような者か、あるいはベビーブームで受験受験とがりがり勉強している学生の姿ばかり追っている。そして高校生とはこういうものなのだと信じている人が少なくないことも事実である。社会においても三十代前後のほとんどの人は、高校生を意識していない状態である。知っているとしても週刊紙が取り上げるような高校生だけであろう。
社会が機械化されその中の高校というわくの中で生活している我々はもっと自分達を知るべきである。それと共に現代高校生というものを新しく認識してもらうべきである。青白い顔をして勉強ばかりしていたり、平気でタバコを吸っているような人は一部で、我々の大半は、まじめである。まじめと言っても昔の学生のまじめとはわけが違う。
先生のクセを見つけて1時間に伺回そのクセをするか、などと授業中に数えたりもするし、当番もたまにはさぼるし、早弁もする。かと思うと、昔の学生と同様に人生論、友情論を戦わすこともある我々だって話し合うことの素晴らしさを知っている。友達と自分の理想がピッタリと一致した時など感激で涙することもある。
でも話し合いは話し合いとして簡単に受け流してしまう。現実が理想と一致しないことぐらい、倫理社会で教えてくれるし、それに自分の置かれている立場を考えれば理想は理想でしかないのである一種のあきらめムードとでも言おうか。受験制度にしても『いやだけれど仕方ないでしょう。僕が何かしたらってどうなるわけでないのだから』という声が多い。
もう当然の事として受験に臨んでいる。クヨクヨ悩んでも損するのは自分だけだからである。この割り切り方は実にみごとではないか、「それならすべてドライに割り切っているのか、というとそうでもない。高校生ともなると対人関係が複雑化してくる。家族、友人、異性、などは悩みの種と言っても良い。特に異性に対しては関心年頃である。ふだん友だちと雑談する時の多くは異性について話しているのであろう。
あの人の事が好きで話してみたいけど、なんてふだん思っているのに、いざ本番、絶好のチャンスという時、やっぱり恥ずかしくてェーなんてモジモジしている人の多いこと。星を見てあの人のことを想って泣いてしまったり、心ひそかにあの娘のことを想って詩を書いたり、意外とウェットな面がある。純情というか何というか。先生の悪口を平気で言っている生徒たちの反面でもある。
友だちと話す内容に将来のことがある。夢は伺か?なんて聞くと、平凡な結婚をして子供が二人ぐらいで芝生がある小さなお家を持って、というようなことになる。 実に現実的な夢である。しかし現実的な夢が我々の時代の夢となってしまったのである。
我々は多くの事を知っている。サイン、コサイン、ペルシャ戦争BC五世紀頃始まる。だとか、孔子、孟子に始まって、ビートルズに至るまで。舟木一夫と三田明のどちらに人気があるとか、ハワイまで行くのにいくらかかるとか勉強の都合上、友達との付き合い上、広く浅くたくさんのことを知らなければならない。頭の中は忙がしいこと限りない。必然的に自分のこと以外は考えなくなる。利己主義と言われてもしかたないそのためか、自分のことに関してはしっかりしてしる。他人のことを考えていれば取り残こされてしまいそうで恐い。ただ現代高校生だって心にゆとりができれば他人のことも考えられるし社会一般の問題も自分で解決してみようという気持はおきてくると思う。我々の調査した中で五十代の人達の現代高校生への批判は意外と良い。『昔にくらべてしっかりしている』と言ってくれる。いろいろな面でドライに割り切ったりする。体は大人と変わらないくらいである。で我々は高校生というものは子供だと自認している。
大人達が心配するようにフワフワもしていない。ませてもいないしイカレてもいない。
自分達の時代をマイペースで進んでいるのである。