「実力」とは、「いつでもどこでも、出せるちから」と思うのが、最も正しいかもしれない。しかし、含みがない。稽古場大関と、よく相撲の世界ではいう。ふだんの稽古では、天下無敵といわれるほど強いが、本場所の土俵では、それほどでもない関取のことである。ほんとに実力があるともいえないようだ。今年の2月11日、現在亀有中学校の伊藤喜代司校長先生の非常な御努力で、時津風部屋(もと双葉山の相撲道場)の朝の鍛錬風景を見学することができた。豊国関は、たしかにそれほど強いとは感じなかった。しかし、本場所では、よく幕内の上位をしめている。すると、「実力とは、いざ本番というときに出せるちから」と思うのが、よいのかもしれない。世の中には、こういう人も多い。また、こういう人でありたいと思う。

常に上位にいなければ、ちからを養成できない学生もある。また、多くのすぐれた同級生の下位にあっても、それには無関心で、ちからを蓄積できる学生もある。
これこそと目的をきめたら、いつまでも、それを達成しよう努力しているとも思われる。「この一番」で、他の人が驚くほどの成績を示す人。どういう境遇でも、ちからを蓄積できる人。一度きめたら、どこまでもその遂行に努力する人。こういう人々が、この世の底辺をかたちづくってほしいと思う。そういう意味で、高校入試は、学区制撤廃、都内在住者は、都のどの高校でも受験できることにしておくのがよいと思われる。それに一歩近づくのが、今度の「学校群」制度ではないかと考えている。
いわゆる有名校患者、また、その裏にはゆがまされた劣等感意識。その是正のためには、学校群も、その過渡期のやむをえない制度であるう。