見られない人間的交流 械的に教えるものと教えられるものというだけの関係になりつつある先生と先徒のあいだ。両者の隔りはかなり大きく、昔言われた師弟愛は見られない。そこで、よい人間的な先生と生徒の交流を望みこの特集を掲載した。
ティーチングマシンとコピストか 昔は放課後、先生と四、五人の生徒が雑談や討論している光景がよく見られたという。授業をするだけで別に個人的に話さなくとも生徒一人一人の名前はおぼえたし筆跡までおぼえたという。 ところが現在はそのおもかげさえれ見られない。身近な自分達の生活から考えてみると、担任の先生とでさえ1ヵ月に一度話をするかどうかというようなこととか、先生と生徒が共に過ごす時間が最も多い授業にしても黒板を三度も四度も書き変える先生あり、それを必死で全部写す生徒あり、大半が教えるものと教えられるものというだけの関係であり、つきつめて言えばティーチングマシンとコピストである。また特別活動のクラブ活動や生徒会活動の場合も名ばかりの顧門、顧門の先生の名も知らない部員、生徒会の行事に無関心な先生、事務的なことしか相談しない役員などが目につく。そして最も心の交流のはかれると思われるロングH・Rにしても臨時集会などがあるとすぐにつぶされそういう時の調整弁という感が強い。生徒の方も極端な人は自習時間と考えている。たまに議題が出されると「席替え」というように先生と生徒の交流にはほど遠いものである。放課後、生徒が相談をしにきたかと思うと[先生、上ばきがなくなりました]である。高校三年間を通して先生と人聞的な接触をもったことがないという人もかなりいる。
以上のことには先生も生徒もそれぞれ理由があるだろうし、それなりの原因も老えられる。それでは先生方はこの問題をどうお考えだろうか。アンケート(回収率33%)などを主体にご意見を聞いてみた。
生徒よ、積極的に 先生も話したい 圧倒的に多いのはもっと積極的に相談ごとなどあったら話してほしいという意見である。例をあげてみると「もっともっと生徒も職員室に入ってきてどんどん話しかけて欲しい。私に言わせると生徒の方こそ〝冷たい〟と思う」心では常に〝話したい〟〝諸君に接したい〟との気持でいる。また遠慮しているせいか先生の方で近づいても諸君のほうで拒否的なムードがあるような気持になることがたびたびある」「先生は両手を広げて待っていますから思い切って飛び込んできて下さい」[中学だろうと高校だろうと先生も人間である。進んで個人的にぶつかって行けば必ずあたたかい人間として話し合えるはず」
その他には生徒の打算的な面とか先生への警戒心のようなものを突かれた次のような意見もあった。「生徒はもっと純真に、時には小中学生のような気持ちになること」「中学一、二年の頃のように無心に自分をさらけ出すことがなくなっていると思う。そうゆう自分自身の変化を客観的に見ることはなかなかできなくて、それを先生方の違いと思い込んでいる面がありはしないか」「表面だけを見て冷いなどと言わず遊びに来て下さいと言っても反応がない。学科の点数にこだわるのだろうか。(中略)そのことについても近づいてくれればいくらでも得をすることがあるのに」といというものである。
以上の意見はほとんどが好意的であるが、あきらめムードの意見もある。
意外に多い事務的雑用 生徒に失望してしまったのか、次のような意見もある。「いくら話をしようと思っても恐がっているのか近よらない。二、三年前の連中はよく話もし、個人的にも生徒会の子もよく相談してくれた。私自身も馬鹿馬鹿しいので今年は特に担任もないし話をしない」という。そして「本当の教育は心の通い合いがなくてはできない。それに一生を捧げるつもりでいるのだが………」と付け加える。また、ある先生は「生徒の悩みごとというのは僕には笑いごとでしかない極端に言うと『秋はどうして涙が出るのでしょう』というのが悩みなんだ。自分の生活のことしか考えない、つまりスケールが小さくなってしまっているということ。それは我々教師にも言えることなのだが………)と語ってくれた。また先にも書いたように「たまに職員室へくるから何か相談ごとでもあるのかと思うと、上ばきや鍵を失くしました。ではガックリとくる」という意見など結局は「教師冥利に尽きるというのは皆無だ」というある先生の言葉で代表されそうである。
その他に生徒の知らざる一面として昔の先生に比べ事務的雑用の増加も指摘されている。 「大人はいろいろな仕事やその他でなかなか全てにわたってみてやることはできません。生徒諸君の方から運動にしても、討論にして機会を作るべきです」 「先生側の授業以外の仕事、雑用、その他にどれほど神経をすりへらしているかを考えてほしい」に至っては先生と生徒の人間的交流以前の問題のようにも思える。
以上、先生の御意見御考えを害いてみたが、それでは生徒はどう考えているのだろうか。同様にアンケート(回収率80%)などを主体に意見を聞いてみよう。
見せて欲しい 地のままの先生「教科書の内容以外に先生から得たいと思うものが、ありますかしとの質問に「ない」と答えたのは二人。アンケートの信頼度は一般に薄く、そのまま受け入れることはできないが、大半の生徒は先生にティーチングマシン以外の何かを期待していると言えよう。
先生への要望、意見の中で主なものをあげてみると[先生は生徒にばかにされないように心がけてばかりいるように思われます。もっと気どらずに失敗談なども話して下さい。親しみがわくと思います」 「あたたかい心でいるなら、もう少しそれを表わしてほしい」 「球技大会の時など一つのゲームぐらい生徒と一緒に応援してもらいたかった。朝のH・Rももっと先生のお話を聞きたい」 「先徒が望んでいるのは表面だけの親切ではありません心と心の触れ合いです。正直な地のままの先生を見せて下さい」 「受験の成績をあげようと努力している先生がかなりおられますが(中略)もっと全人的教資の面にも尽力してほしいと思います。その点でもっと生徒と話すこと。くだらない話しでも結構。そのうちに何かが得られるでしょう」 『最近の子供は……』という考え方を改めていただきたい。余計に反発したくなります。すべてを理解しろとは言わないが理解するよう努めてほしい」「授業中、自分のいろいろな経験談でもしてくれたらもう少し授業がおもしろくなるんじゃないですか」「先生方にお願いしたい。ティーチングマシンの地位に甘んじていただきたくない。人生の先輩としてもっと私達に勉強以外の何か、他では得られない何かを与えていただきたい」等々。
以上列挙した意見と全く違うもので「学校に来るのは勉強を教わるためだから先生と生徒との人間的な交りなんてどうでもいい。教えることさえ、きちんと教えてくれれば授業はおもしろみがなくたって、つまりティーチングマシンだっていいと思う」というような意見もみられる。現状ではこのような考えがすでに生徒に浸透していることも見のがせない。
双方とも小市民的 先生と生徒相方とも話し合いたいと言いながら受身である。そして無気力であり現在の状態に甘んじて積極的に打破していこうとする意欲が感じられない。社会全般が小市民的傾向を持ち、それに伴い先生も生徒も小市民的なのである。
先生はたいへん忙しい。教える事がらも程度が高いし、ルーム担任、クラブ等の顧問もする。進学就職にも心を砕かねばならないし、その合間をぬって種々の雑用を片付けねばならない。研究日が週一回あるがこれ位ではとても足りない。先生に関する限り八時間労働は山のあなたの夢でしかない。すべてに全力投球していたらたまらない。自分の家庭だってある。教職は聖職だなどと言ってはいられない。
生徒にしてもわざわざ窮屈な先生の所で話すことより友達とのダベリングの方がはるかに気軽で楽しい。もっとも致命的なのは大半の生徒が、先生との人間的交流の経験がないことである。
ある生徒が「先生との話し合いは音楽を聞いたり、美術を鑑賞したりするのと同じだと思う。芸術は人間の生活になくても生きゆけるし、たいして困りもしないが、それに触れれば人生はより豊かになり視野が広くなる」と言ったが先生と自分との世界というものを改めて考えてみる必要があろう。先生も生徒も受身ではあるが先生の方は生徒への失望、その他からの無力感、挫折感が大きく影響しているといえよう。
アンケートには「いつでも話しに来て欲しい」と書いてはあっても先生の態度を見ると飛びこんでいけない伺か―先生の人間的魅力の低下にも原因―があるようである。
さて、原因を個人的なものに置換してしまったが、積極性のない小市民的傾向は先生と生徒の関係ではなく人間と人間の問題であり教育問題、社会問題につながっていく。しかし、ここではそこまで触れないでおく。中にはうまく交流をしている例もあるのだから。
まずはこの条件の中でも最高の段階にもっていくことである。現在はあまりに隔たりが大きすぎる。それでは現実にどのようにしたら良いだろうか。
まずお互いに親密感を増すことである。生徒は昼休みでも、放課後でも、どんどん先生の所に押しかけるのがよい。学科以外の相談を持ちかけるのもよい。自分で食べ物を持って先生のお宅に訪れるのもよい。時には先輩として、時には自分より経験のある同僚として、考え話し合ってみよう。それから授業中、自己表現として先生に認めてもらうことである。質問されたら「わかりません」でなぐ自分の考えを発表する。先生がティーチングマシンでは済まされない授業にするのである。名前ぐらいはおぼえてもらって損ではない。
もっと積極的に先生に飛び込んでいくのである。
一方、先生の方も「あんな授業をされたら、とても個人的に話しに行くなんて………」と思わせない授業をしてほしい。おもしろくというのではない。生徒の方から積極的に話しに行くことは重要なことだが、そうさせない何かがないように、気楽に話せるムードを身につけてほしいのである。