コース制の遺したものは [鷺高新聞 第85号より]
コース制実施の理由を、もう少し突込んでみよう。「数学の程度は非常に高いため、ついていけない人も多い。受験を考えた場合、特に理科系は高度のものが要求され、文科系はそれほどは要求されない。したがって同じ授業では両方に無理が生じる。」 (難波先生談)、つまり、数学、理科によってのみコース制を実施したことになる。しかし、これを現実に見た場合、やむをえない状態である。事実、我高が裏コース制(コース・クラスとホーム・クラスを別にする。)をとってから、早稲田、慶応等の私立一流大学、また、国立大学への進学率が毎年のびてきていることも事実である。そういった見地に立てば、コース制は一応の成功をおさめたといえよう。 しかし、これで十分とはもちろん言えない。このコース制によって生じた弊害も数々ある。二年生の男子クラスの荒れようは目に余るものがある。また、女子クラスの評判も決してよくはない。理科コースに対する、文科コースのコンプレックス的なものも一部の生徒にあるようだし、事実、確かに〝差〟というものをもって見る先生もいる。 「文科コースの特色がない。」事実ない。これに対して教務の難波先生は、「確かにその通りだ、しかし、理科系は文科系と同程度の文科系科目を要求される。理想としてはもちろん、文科、理科各コースに特色を作るべきだ。」 また進路指導の不足、コース制に対する説明不足もある。何よりも、二年生から三年生になる時、約半数もの人が理科コースから文科コースに変る、ということがそれを表わしている。 前にも記したように、コース制の残した足跡は大きい。少なくとも我校において、進学率の伸びることは重要なことだし、我々にとっても意味することは大である。そういった観点から見ると一方的な反対も出来ない。が、それによってかなりの弊害が出来たこともまた事実である。 しかし、この大多数の反対の理由はとこにあるのだろうか。 それを一言で言ってしまえば、互いに一方通行である。先生側の進路、コースの完全な指導不足。また、生徒にとっても、進路、コースという単語を聞くと、一方的にそれを拒否し、耳をふさいでしまう。そのようななかには決して相互理解など生れっこない。先生方はもっと摘切な説明、指導をすべきだ。また、先生によって言うことがちがっていたりして、職員側の考えも種々あるのではないだろうか。そのために生徒がいたずらに迷ったりもする。それに説明指導でも、もっと発展性のあるものにする必要もある。毎回同じようなことを聞かされるのでは、聞く方もウンザリしてくる。生徒も一方的にそれを拒否することではなく、もっとよく聞き、理解すべきである。なんといっても結局は自分のことなんだから。 コース制のもたらした弊害の多くは我々の理性、自制等で解決できることである。授業をサボつて遊戯場等に行くことなどは、決してコース制の為でばないはずだ。 それよりももっと重要なことはいかにより良い高校生活を送るかということである。これはクラブ活動に精を出すこともそうであれば、より良い大学に行くこともそうである。 「より良い大学」といったものを考えた場合、現状をよく理解するならば、二年からのコース制もやむをえないと言える。が、現在我校で実施されているコース制は全く本道からずれ、いたずらに理文を分けたにしかすぎない。コース制というのは決して我校の今のようなものを言うのではなく、それぞれ各コースに特徴があり、文科は文科、理科は理科といった一種整然としたものがなくてはならないはずである。 もう一歩考えを進めよう。 結局、コース制のもつ力は有限であるということである。確かに今まで進学率は伸びたが、それはこれからも伸びるということを意味していない。数学を週六時間から七時聞にしたってそれは大して意味をなさない。それよりももっと重要なことは、我々自身がいかに努力するかということにある。
|