【論説】 流行語の使い方 時と場合 [鷺高新聞 第72号より]
流行語とは、何なのであろうかみんなが集まって、ダペリングをする場合、あちこちから、流行語がポンポン飛び出してくる。その時、その言葉がどのような意味(といっても、意味のない流行語も多いが・・・つまり使い方等)あるかわからないと、テレビも見ないで勉強ばかりしているような者と思われてしまう。それがいやさに、流行語を覚えようとする傾向があるのではなかろうか。 では、なぜ流行語は生まれてくるのであろう。現在の世の中では、マスコミが大変発達している。ラジオはもともとよりテレビの普及もいちぢるしい。今の流行語は、テレビのブラウン管からはやるといっても言い過ぎではないようだ。 テレビ関係の人々が、今度はこの言葉をはややらせようという企画を立て、番組あるいはコマーシャルの中にその言葉を取り入れる。 それらの言葉の一部分――それは我々が観て、あるいは聞いて、わかりやすく熱烈なタッチで我々の心に侵入してくるような言葉、それが流行語であると思われる。その流行語は。〝ガチョン!〟〝次行こう〟〝そういうこと〟″あらほんと、ち~とも知らなかったわ〟〝まとめてめんどう見よう〟等と種々様々ではあるが、全体的にみると、それらの流行語はコマーシャル的要素を多分に含んでいるコマーシャル的要素――つまり、谷啓がでれば〝ガチョン〟植木等が顔を見せれば〝オヨビデナイ〟だとか、そういうようなタレント達の自己宣伝。〝谷だ〟〝青島だ〟なんていうのは、それを最もよく現わしているようにみえる。 また、いわゆるコマーシャルから〝いいと思うよ〟〝何であるアイデアル常識!〟というように数多くの言葉が流行語として誕生しているわけだが、現在のようにタレントあるいは会社が多かった場合、自分というものを他の人より目立たさせるため、トレードマーク化して自分専用の言葉を使う――それが流行語になるということが当然考えられる。 しかし、いくらテレビ関係者、コマーシャル係あるいはタレントが、流行語を作るうとしても我々がそれを受け入れなければ、はやらせることは出来ないであろう。 ブラウン管を通じて、我々一般に広くはやるのは、どぅしてなのか?我々が流行語を使う時〝なぜこの言葉は、はやったのか?〟というような疑問を考えもしないでほとんどの人が無体裁にその言葉を流行語として受け入れている。 テレビを観て、誰がどのようにして一番広くまではやらせたか? 関係者が、我々の視聴率の高い人気番組でその言葉のイメージにぴったりの人に、たびたびその言葉を使わせ、その印象が鮮明にあるいは、おもしろいなぁー、ああいう時に使ったら効果的だ、ごいう感情を視聴者に投げかける。 そのような視聴者達が、学校あるいは職場で使い、それが一般社会にまで濫氾していくのであろうか。推測として、このようなことも言えるであろうが、実際はまるであいまいだ。 つまり一般社会に流行語を受け入れるようなムードというようなものがただよっているように思える。 江戸時代、明治時代というような者に〝ドヒャー〟だの〝ガチョン〟だのと言ってもしっくりこないだろう。しっくりこないどころか、馬鹿か気狂いと思われるのがおちである。つまり、時代的背景の違いとでも言おうか。 流行語に限らず、今問題になっている。〝ワッペン〟〝シール〟等数えればきりがないが、それらはみんな大人達が宣伝のためにしているのではないか。話は本筋を離れると思うが、子供達の注意をひこうと各社が懸命になって、キャラメル、チョクレート等の中にペンないしシールを入れる。子供はそれが欲しいがために、それを買ってと母親にねだる。買える余裕がある家はまだしも、買えなかった場合はどうなるだろう、欲しいがための犯罪が当然おきてくるにちがいない。大人達のしていることが子供達に悪影饗を与える――よ流行語は犯罪もしくは暴力にまでは行かないにしても先ほど言ったように、腕行語を知ないと〝お高い〟とか〝ユーモアがない〟というような特別の人物に見られるというようなことがないとはいいきれない。 これまで流行語の悪い面ばかり書いてきたが、もちろん良い面もある。 話をしている時、話題が無くなりぎこちなく気まずい雰囲気になった時など、タイミングよく流行語を使えばその険悪な雰囲気を和げ、なごやかにするという場合がそれである。 従って、〝流行語を使うには、その時の場が、使ってよい時か、悪い時かを見分ける判断力を持つ〟ということが当然必要となってくる。やたらに流行語ばかり使って他の人に不愉快な感じを与えたり、また使っているその人は上っ面の軽薄な人間に見えないとも限らない。 また、そのように流行語ばかり使っていると日本独特の言葉の美しさというものが失われてしまうのではなかろうか。フランス人は、自国の言葉を大切にし、誇りを持っているそうだ。それと同様、我々だって日本古来の言語の美しさをもっともっと大切にする必要があるのではなかろうか。 今まで言ってきたこと――それらを自覚したうえであったら適度の流行語というものはユーモアがありいいと思う。しかし、前に言ったことは、その立場立場で使ってよいかどうかを判断する能力のある者にだけ通用することであって、幼い子供達の場合には通用しないと思う。幼い子供達は、ところかまわずやたらに流行語を使って喜んでいる。そのような時、母親、父親あるいは先生、もしくは我々学生であっても、その場その場で〝今そんなこと言っちゃおかしいんだよ〟と一つ一つ教えてあげる必要というより義務があるのではないだろか。 そうすれば、おのずと品の悪い聞いていて不愉快な流行語はなくなりユーモアのある、品の良い流行語のみを使うようになるのではIないだろうか。
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