第八号《足跡》廃刊さる [鷺高新聞 第72号より]
原因は寸言集の中 ある生徒が次のような文を・新聞部に投書してきた。 「160,000-1,000=159,000」これは足跡廃刊に関しての簡単な引き算である。 説明すると、16万円かけて作られた足跡が、我々の知らぬ内に、くす屋に1,000円で売られた―ということである。私には去年とたいして変わりばえしない第八号の廃刊が不思議でならない。そして5月になったのに先生の方からは何の連絡もない。我々の払っている生徒会費の行くえはどうなっているのだろうと心配するのは私だけではあるまい。廃刊の理由、再刊に当てる費用、そしてなぜ今まで生徒に極秘にされていたのか、それらについて、先生側から我々の納得のいくように回答してほしい新聞部ではこの知られている事実を敢えてここに取り上げた。その理由は、諸君が自分なりにもっている疑問というものを少しでも解消させたいという意図からである。足跡廃刊にどれだけの問題が含まれているか?その問題をいかにして解決していったら良いのか?問題が問題であるだけに、的格な判断、解決法がみい出せない点が多いが、とにかく読んでもらおう。
廃刊までのいきさつ 廃刊された理由はすでに聞いて知っていると思うが、ここでもう一度、そうなるまでのいきさつをたどってみよう。 執行部では二学期中頃から「足跡編集委員会」を設置し、順調に仕事を続け、その間、特に取り上げるような問題はおきなかった。そして18万円(内16万円は生徒会費、2万円はPTAより)という多額の費用と、膨大な日数と人件とをかけられて、3月8日に発刊される運びとなりあくる3月9日―卒業式の日―に、卒業生全員と先生方とに配布された。そこで、少数の先生方の中に、寸言集の中にいかがわしい問題にされそうな寸言が含まれているということを指摘する先生が出てこられそこで3月中旬の定例職員会議の席でその問題が取り上げられ討論した結果、もろもろの意見か出されたが、結局、第8号足跡は廃刊と決定された。 それと同時に、廃刊後の・第8号足跡の処置にっいては、全て生徒会顧問側に一任された。 その処置というのは、廃刊されたものは廃物となってしまったということで、廃品回収業者の手に千余円という安価で売ったということである。その意図として生徒会顧問の手島先生は「学校におけば生徒に見られることはさけられないから」と語っていた。 さらに、生徒に配布しないのはまずいので、組み直して再刊するということも決まって、印刷所へ再刊を依頼した。以上がおよそのいきさつである。
その問題点五箇条 未然に防ぐことは? 初めに完全に発行する以前に廃刊を免れる賢明な方法はなかったかという問題かおる。 何でも、顧問は出来上がるまで一度も原稿に目を通さなかったそうだ。それは顧問側にも編集委員側にも、同等に責任があったと言えるが、それよりも連絡が密でなかったことに原因があるのではなかろうか。 それについて顧問側では、「ちゃんと目を通さなかったことは完全にこちらの手落ちでした。』と語っているが、その言葉に対しある生徒は「先生が原稿を調べるのは誤まっている」と言っている。 もちろん、足跡は生徒の手で作られる生徒会機関誌なのだから、先生が検閲を行なったり、廃刊を決定するというようなことは、どだいおかしなことではあるが、我々はこういう問題が起きた場合に責任をとることは無理なので、それもやむをえない。足跡に限らず、こういう仕事をする際には、先年と生徒とが一体となて話し合って仕事を進めて行くという方法が望ましいのではないだろうか。
再刊に当てる費用は? 次に、再刊に当てる費用はどこから出すかということ。 それについて執行部会計の顧問である推野先生に回答を求めたところ、およそ次のように語って下さった。 「今年は例年になく多くのお金をかけて作ったので、再刊するにも費用がかかりますが、活字などはそのまま使えるのでいくらか安くなると思います。再刊に当てる費用は、38年度残金と、予備費、それからPTAの力からの援助。それでもなお不足の分は、半年度(39年度)の生徒会費の中から出すようにします。とにかく印刷所にも安くしてくれるように交渉し、あらゆる面でできるがけの節約をして何とか出来るようだが、ここで、我々の納めている生徒会費のことをあげなければならない。39年度の生徒会費から出される金額はわずかではあろうが、それにしても不可解なことだ。
極秘にされた理由は? 次に、なぜ廃刊問題が生徒に極秘の内に進められたか?という問題がある。 生徒総会で発表される以前にこの問題を知っていた人というのはそう多くはいないはずだ。知っている人でも先生の口から聞いたという人はおそらくいないだろう。 一つには、発表する機会がなかったということもあるが、その事情を知っている生徒はともかく、一般生徒は3月中頃決定されたことが、しかも生徒にとって大きいに開題となるようなことが、今まで伝えられなかったかということを当然疑問に感じる。先生側としては、全く隠すという気持がなかったにせよ、こう長い月日を経だて、公に発表されていないのでは、生徒に疑いの目を向けられてもしかたがない。 生徒としては、自分達のものであるべき足跳が、生徒に何の承認もなく、言ってみれば、全く一方的に先生だけで廃刊が決定されたということは、全く遺感にたえないことである。このような生徒に直接関係のある問題には、生徒代表を職員会議に出席させ、先生とは別な見解から意見を聞いてみるというくらいの配慮があってもよいのではないだろうか。
その処置は適切か? 四番目として、廃刊された足跡の処置はどうなったかということが疑問としておいてくる。それは経緯の所でも説明したとおり生徒会顧問によって、廃品回収業者に千余円で売られたというのが事実である。18万円もかけて作られたものが、わずか千余円という安価な値に化してしまうのだから、全くひどいと思うのだが、といって他に何か良い方法があったかというとちょっと見当たらないのだ。焼却するという方法もあるがこれには我々が想像する以上の多大な費用がかかるのでお金の問題ではないが、千余円というわずかな額でも再刊に役立つと考えれば、その方が賢明だったといえるだろう。売ったものが校外の第三者の手に渡ることはないだろうから………。
問題の寸言はどういうものか 最後に廃刊の理由となった問題の寸言についてである。その寸言がどういうものかを知っているのは、この編集にたずさわった人以外ではおそらくいないだろう。新聞部ではこの仕事をするに当たり一応その寸言を読んでみた。それをここにのせれば話がしやすいがそれでは、全く廃刊の意味を無視することになるので、残念ではあるが、その性格を言うことだけで話を止めておく。 我々が調べた範囲では、問題になるような寸言は三点あった。そのどれもが非常に個人的な批判であるのだ。 まず第一は、人権蹂躙と思われるような語句が、ある特定の個人を対照として歴然と使われているのが問題なのである。 残り二点については、プライベートな問題に深く立ち入り、それが実にこっけいにリズミカルに書かれている。一見何でもなさそうな冗談のようにうけとれるが、確かに〝プライバシーの侵害〟と言える性格を持っている。 いずれにせよ、ある個人を取り上げて非難していることに変わりはない。それはいかに言論の自由が認められている今日でも、許されてよいことではない。
寸言はいかにあるべきか 寸言はいかにあるべきか? という質問に答えるのはむずかしい、そこで我々は、その足がかりとして近隣の高校の機関誌(鷺高沢疋跡に価するもの)を調査してみた。 まず中野工業の「埋れ木」。これには「寸言」と題して、卒業生の言葉が書かれている。その寸声を全部読んでみたが、ユーモアのあるもの、マスコミの影響をうけたいかがわしい流行語などはあっても、教師を個人的に批判していると思われる寸言はなかった。それはこの寸言が全て、記名で書かれているためであろうか? それについて、中工の「埋れ木」編集委員にたずねてみたところ、およそ次のように回答してくれた。 「記名制になっているのは昔からのことで、果して問題がおきたから記名制にしたのかどうかばわからない。無記名制にした場合そういう問題がおきるかどうかもわからない。先生に対する批判などは別の手段で出来るから。」 次に西高の「蒼樹」、富士高の「校友」、早大付属高等学院の「学院雑誌」を調べてみたが、寸言集に類するものはみあたらなかった。大泉高校では、そういう機関誌すら発行していない。 以上であるが、意外と寸言なるものをのせていない学校か多いことに驚かされた。これでは、さして他校の機関誌から得られるものはないが、中エの記名制については我高の無記名制に対して、良い比較になるであろう。 それでは本論に入ることにしょう。 我高の寸言は原則として無記名が許されている。名前を書こうと書くまいとそれは全く各人の自由である。その自由の中から、寸言を書く上での自由が生じてくる。 どんなことを書いても無記名ならとがめられない――そう思えばおのずと自分の書いたものに対して無責任になる。悪ふざけもしたくなるし、ちょっと先生を皮肉ってやろうという気持がおいてくるのは当然である。しかし、我々は自由に甘えてはいけない。何でも好きなことを書いても良いとはいえ、それはやはりある限界内でのことである。その限界は一概に決められないから、個人の良心に任せることにしよう。そして例え無記名であっても、自分の書いたものに対しては絶対に責任を持つべきである。先生方の信頼を裏切らないようにするためにもそうありたい。
校長先生と一問一答 ―寸言はわが身の分身― では最後に校長先生にこの問題に対する御意見をうかがってみよう。
問)今度の足跡発刊についてどうお考えですか。 それは他の先生力と同じです。つまりあの「足跡」はあらゆる方面へ配られ、学校の評価の一端となります。ああいったことは対外的に非常にまずいのです。しかしいかがわしい寸言を書いたのはごく少人数であって、廃刊にしたのでは、まじめな生徒の寄稿を無駄にすることになります。そこで、そういうものを大切にするという意味で、組み直しをしたわけです。
問)では、最近の鷺高生は堕落していると言われているのですが、そういう鷺高生の気質と、この問題について関係はいかがでしょう。 鷺高生か堕落しているといようなことは外部で言わているのですか?
問)いいえ外部のことではなく内部的にです。少数の先生や生徒から聞かれることです。 私はそうは考えてはいません。また、考えたくもありませんね。
問)先日の50余名の謹慎問題なとから関連してどうでしょうか。 あれは異常心理でやったことですからね。しかし男生徒については〝弱さ〟というものはあるように思います。鷺高生は大変素直でよろしいが、自分というものに甘すぎる。勉強にしろ、運動にしろ、もっと自分自身を鍛えることをすべきです。男生徒はとくに、素直さの上にたくましさが必要です。
問)では寸言とはどうあるべきだと思いますか。 寸言というものは、鷺高生活三年間を終えたものが、在校生にのこして行く言葉ですから、何を書いても良いと思います。 しかし、今回問題になった寸言ように先生の悪口を言うなどというのはよくないと思います。言いたいことがあるなら正々堂々と言いなさい。私は書くということは、我身の分身をさらけ出すということたと思います。ですから例えまずい文であってもそれか一生懸命書かれてさえいれば何か人の心をうつものです。人は何か気のきいた皮肉でも書くと、さも秀才のように錯角しますが、それは真ではありません。つまり一言で言えば、三年間真頁正面から取りくんだ鷺高生活の中から何かを残していけば良いのです。
問)では、寸言は記名制にした方が良いとお考えですか。 無記名でもかまわないと思います。ただ無記名であっても自分の書いたものに対し絶対的に責任を持つ必要があると思います。記名にするか無記名にするかが問題なのではなく、書くことに自覚をもつことが大切なのです。
問)これからも再びこういう問題はおこると思うのですが いや、先生と生徒とがよく話し合って、悪いところは指導していただき、直していくよらにすれば、もうおきないと思います。それを期待しています。
そうですか。では、どうも長いことありがとうご言いました。
第九号足跡を品位あるものに まだまだこれでは、我々の意図する問題の解法にはならない。しかし、我々はできるだけのことをしてみた。あとは諸君がどう考えていくかということである。これが単に問題提起に終わらないように、ぜひこの問題を考えでいただきたい。 この廃刊で我々新聞部の気づいたことを記しておこう。何といってもこの廃刊問題のおきた原因は教師と生徒の関係が密でなかったことにある。我々は何か問題がおきた場合、責任をとることは不可能である。だからいくら生徒の手で作る機関誌あっても、よく話し合い理解し納得し合ってお互いに誤解のないようにありたいと思う。 諸君! これを機会に、寸言はいかにあるべきか、「足跡」はどうあるべきか、ということを考えてみようではないか。 我々は、諸君の良識あることを信じ、第9号「足跡」が必ず品位あるものになることを期待して、この文の結びとする。 (M)
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