文化祭の本質とは [鷺高新聞 第73号より]
文化祭の本質とは――。非常に淡然としたつかみどころのない質問だが、まず率直に感じることはと言えば、昔と今とでは本質ということの条件が異なってきてはいないか、ということである。もちろん昔と言っても数年あるいは十数年前のことであるが。昔は文化祭というものを単なる研究発表の場としての要素は強くても見せる要素ということは考えなかったろう。それが今では座談会にもあるように見せる要素は必要だと言われている。文化祭の本質を考える上でどちらの考えが良いかは一概に言えないが、文化祭は曲り角にきていると言われ、マンネリ化を呼ばれている昨今、おのずとその本質も変わるのが当然だろう。座談会にもあるように文化祭の問題点はそのマンネリ化を頂点として数多くある。毎年同じことのくり返しで言いにくいことだが新聞部もその例にもれない。『一部の人によって行われる文化祭』文化祭は生徒全員のためにあるものである。決して部の人または文化部のためにあるのではない。運動部の展示参加もおおいに結構である。 今年はまた去年とは大分異なった文化祭が出来そうである。杉並公会堂での催し、運動部展示初参加など行われる価値は充分ありそうなものばかりで見るほうは期待が持て楽しみが増した。そしてこれらのことが文化祭のマンネリ化打破の糸口となるかはわからないが、たとえ一部の間にでも文化祭の関心が高まってきたということは来年以後の文化祭に大きな希望を持たせることにはなる。そして数年後は文化祭の反省を新聞が書かなくても済むような立派な文化祭としてほしい。 座談会でも言っていた統一テーマは非常に変わった趣考でどんなものか楽しみだがなかには果たしてそれが成功するのかどうか、それが目先の変わったものであるということだけに終わるのではないかと賛否両論まちまちだがいつかは文化祭の一つのあり方として真剣に考えられても良いし、行なう意義はたしかにある。大体、今の文化祭は各クラブがパラパラで統一性がない。しかし今のところはおいそれと実現しそうにないが。 それと似ていることでクラブの中にはテーマを持たずにいるクラブが案外多い。美術部、茶道部、華道部などは普段の活動も地味で目立たないが、一貫したテーマを持ってただ単に画を描くとか、お茶をたてるということで満足することなく、美術部などたとえば「青春」をテーマとして一連の作品を見せる、茶道部なら『千利久』をテーマとして研究発表を行なうなど、またまだ改革の余地かあるのではなかろうか。 近い将釆には学校側も文化祭に対するはっきりした方針を打ち出すだろう。それが生徒の考えていることと一致するかいなかは誰にもわからない。それはともかぐ文化祭の主動である生徒自身が、単にお祭りをお祭りとして過ごすのではなく、もっと格調高い意義あるものへ発展させるべく努刀が今こそ必要なのである。 〈新聞部〉
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