特集 人間像を解剖する [鷺高新聞 第75号より]
―期待される人間像より―
人間像喪失の裏には 根性をもて マスコミをにがわしている〝期待される人間像〟の草案について考えてみようではないか!
人間像がだされるまで基盤のない民主主義 1月11日、文部省中央教育審議会から『期待される人間像』の中間草案が発表された。これは、平均年齢68才というおじいちゃま方が、日本人、特に若い層(高校生を対象)にこうあって欲しい、こうであれという形で考え作成したものである。まず、これを検討する前に、なぜこの様なものを文部省が示さなければならなくなったかを、考えて見る必要があるだろう。そこで戦前の人間像はどうあったか探ってみよう。 戦前の政治の形態は、天皇を頂点とした絶対主義であった為その人間像は天皇には忠誠をつくし、親には孝行をするという事を根本とするものであった。それ故当時の理想的人間像としてとりあげられた人物は、大体が特定の徳目、忠君愛国、質素等を重視した人物に限定された。 戦後は、日本の政治的特殊性から戦前の軍国主義的体制は、完全に撤廃され、日本には全く基盤のない欧米民主主義が導入された。その為、道徳教育に関しても、形式論のみが氾濫。その民主主義精神を明示する人間像も日本の歴史的文化的伝統の中から見出す事は不可能であった。その為、欧米から、それを求めなければならなかったが、それらの社会的背景は日本のものと異なり、極めて抽象的、観念的なものとなって、国民の大多数には縁の遠いわかりにくいものとなった。以上に示した事は、「期待される人間像」を示さなければならなくなった社会的理由の一つであるが、その他の理由を探って見よう。 我々は、敗戦によって深刻な生活難に陥いった為、精神的、現実的なものより物質的、現実的なものにより高い値をつけるようになった、これが二つめの原因であろう。その他に、戦前とは、教育方針が変った事があげられよう。国語や社会の教科書を見ても、歴史中の人物のとり上げ方が少なくまたとりあげてもその外面的な事だけしか教えなかった。そして、教材として与えるものも、文学作品や伝記等よりも、会話、会議、鑑賞の仕方等の現実的かつ実用的な分野を重視した為に、人間について考えるものが相対的に減少したそれに連れて人間像等について深く考えようとする者も少なくなった。 そして現在にいたっては、マスコミが発達し、本来ならそれを使って自分を延ばすのであるが、逆にマスコミにおどらされ、氾濫しているマスコミに同化し、我々の持つ人間像が低俗化する傾向にいたった。(加藤)
現代学生の怠惰 では、次に昔の学生と現在の学生を比較してみよう。昔の学生に学生としての自覚があったとは完全に言い切ることは出来ないだろう。しかし、現在の学生よりも、それをより多ぐ持っていたであろう事は確かだ。 諸君に、学生としての自覚はどういうものかと聞かれても―学問が始まって以来現在に至るまでいろいろな意見は出ているが、誰でもうなずけるような明確な解答は出されていないから―容易に答えられないが、筆者として(誰でも考えていることと思うが)学生とは「学問―つまりsin cos やlogのこと―を学ぶ間、その苦しい間に、入間の本質や社会の道理、その他もろもろのことを考え、自分なりに責任のもてる解答を出し、それをより所にして、人生を歩んで行く」ものであると信ずる。 そこで新・旧両学生について考えてみよう。昔の学生の大部分は少なくとも自己の主義・主張(それを考えるだけの時間的余裕があったからかも知れないが)を持っていた様に思える―そういう風にきいた。 しかし、現在の学生はどうであろうか、暇があれば、映国からスケート等の遊びにあけくれ、片方は、入試の為だけに、夜を昼にして勉強している。その為だけとは言い切れないが、前に示したような「学生とは」等の問題を考えようともしない無気力ともいえるような学生が多くなった。 その上、自己の主義・主張を持たず―持っている人もいるだろうが、その人達はみんなその主義に対して責任を持っているだろうか―よく考えもしないで妥協してしまう傾向にあるのではないだろうか。 ここで学校内での出来事を例として取りあげてみよう。 遅刻常習犯という汚名をつけられている人、休憩時間が終っても一向に着席せずに先生かいらっしゃってから、ガヤガヤどよめきながら席につく、授業中は授業中で勝手な話をしたり、大声で笑ったり、内職をしたり、本を読んでいる。さて、放課後〝俺は今だかって一度も掃除したことない〟とうそぶいて堂々と帰ってしまう人もいる。それと一番肝心なホーム・ルームまず第一に役員選出からしてだらしがない。〝誰でもいいや、勝手にやってくれ〟という調子で始まるホーム・ルームに期待する方が無理というもの。ますホーム・ルームのあり方について考えてみる必要があるのではなかろうか! このような例をあげていけば数限りない。 この辺で、完全なものではないが一つのまとめをだしてみよう。 〝こんなこ一つ位〟と思ってやったにしても、ちりも積もれば山となる〟 我々が〝スリルを味わう〟意味でやるようなこともある。 (例 早弁・きせる等………) しかし、常に反省という気持ちを忘れないでほしい。それは 〝初心、忘れざるべからず〟という気持ちに通じるのではないだろうか。 それ故、文部省から。期待される人間像”というものが示されたのではないだろうか。 (加藤・山田)
マスコミに騒がれる人間像 では、この辺で〝期待される人間像〟の賛否について述べてみよう。この草案が発表されて以来、毎日のようにマスコミをにぎわし学生、一般社会人から教師に至るまで、いろいろな批判がでている。そこで、本校のある教諭に尋ねてみたところ「このようなものはあっても良いと思う。しかし、今度の草案を見ると、教育基本法に基づいて書いたと思われる点は全くと言って良いほどみられず、また具体化されていない。それに、教育か政治家の手によって行なわれている点に難点がある。せんじつめていえば、内容にもひっかかる点はあるが、あの草案をどういう風にして実行していけばよいかを示してほしかった。」ということであった。 文部省と犬猿の仲である日教組は「あれは現代版教育勅語である」と批判している。草案を読んだ父母達は「今の子供達は、だらしなさ過ぎるから、ああいう風に少し教訓めいたことでも上から言ってくれないと、大人になってから困るから………あったほうがよい。」 「内容はともかくそれについて少しでも考えていけば、自然に必要性を感じてくるのではないか。」というのに対し、学生達は「あんなことわかりきってらあ。あんまり人を馬鹿にするなよ。」とか「書いてることはご立派でご最もだが国や政府が、こういうものをだすなら、そっちでも責任もってくれ」とまっこうから反対する者もいれば「あのような文だったら人によって受け取り方がまったく違ってくるのではないか、だからもう少し誰にでも通用するような具体的なものが出来てから・・。」という慎重型や「委員の年は最高八十一歳、最低五十三歳、平均年齢六十八歳だろ、そんな人達の考えていることが現代の学生に通じると思うのかね、困るなあ。」という受け入れず型がいると思えば学生の中にも、「真理というものは、時代や場所によって変わらないものだ。あれが真理だとは絶対にいえない。作った人自体がここ二・三十年のものだといっているからね。結論をいうと、あってもいいと思う。しかし、作るのなら、そんな穴うめのようなチャチなものでなく、むずかしいだろうが、出来るだけ、普遍的なものに近いものを作って欲しい。形はあれではまずいだろうからなおした方が良い」というようなあっても可なり型の人もいる。 このように社会に波紋を呼び起こしている〝期待される人間像〟のことを全く知らない人も少なくないし、また知っていても〝もb^文部省がだした物にろくな物はない〟等と考える意志のない人もいる。我々、新聞部では草案全部について述べるのにはスペースの関係その他いろいろな理由で取りあげることはできない。 しかし、高校生である以上〝期待される人間像〟について考えてもらいたい。 そこで〝期待される人間像〟の中で学生に最も密接と思われる、〝学生の生き方〟というようなことを取りあげてみたが、いかがであろうか。(加藤・山田)
自分自身を知る 最後に〝期待される人間像〟の草案についての意見を述べてみよ 封建的、命令口調で、明洽色が強い文章ではあるが、全般的に言って〝ごもっとも〟な文章で、あのままの人間ばかりの集まりだったら、人間同志の醜い争いのない平和な社会が出来あがるだろう。しかし、現在の社会情勢においてあの〝ごもっとも〟な文章のままの人間を望むことは無理な事である。例えば定時制中学、高校…の人々を取りあげると…。 世間的には、その存在は認められているにもかかわらず、一流会社等では〝定時制を出た人々は顧わない〟という事実。この様なことが今の社会にはいくらでもある。 いくら、自分一人で〝俺は誰がどう思ったところで、我が道を行く〟といきまいたところで、世間的に通用しないのではどうしようもない。強い人間だったら、まだしも弱い人間は、そういう事(世間的に認められない等…)で非行にはしるという場合もあろう。 〝期待される人間像〟という草案については、一部を除けば、あのような人間になることは良いし、なりたいと思う。 その反面、今、活躍なさっている政洽家の方々(だけとはいわない)にお願いしたい。 世間的に認める、認めないという言葉には語弊はあると思うが、若い人々が社会人となって職場等に入って行く際〝汚職〟だの〝ワイロ〟だのというようなことのない気持のよい職場であってほしい。 こう書いたからといって、我々高校生かこれにあまえろというのではない。現在の社会情勢の中で自分の目的をハッキリつかみ、それに向って前進して行くという事が必要である。 目的をつかむには、まず。〝自分自身をよく知る〟という事だ。自己を知らない人間にとって何かできるといいたい。自己を知らない人間か社会の為に奉仕すること等はおそまつである。 この様な事であるが。〝期待される人間像〟の草案をもう一度(読んでない人は読んで)読み、考えてもらいたい。 そして自分は自分なりの〝理想の人間像〟を考え、その理想の人間に自分を一歩づつでも近づけていくという事が一番、大事なことではないだろうか。(加藤・山田)
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