【論説】 既製品になるな [鷺高新聞 第76号より]
最近今の学生は規格にはまった優等生ばかりと言われる事が多い。つまり個性が、夢がないのである現在の自分の高校生活に慣れきってしまい、不満があったとしても自分からは決して言い出さない。その気力さえもない人がほとんどなのである。何かしようとすれば必らず自分の廻りに波紋が起る。それが彼等にはめんどうなのである。皆理想を追求するのがむずかしい事を知りつくし、生徒会、HR、社会のすべてに関心がなく、最後には自分のことしか考えない哀れな既製品ができあがる。 以上の事は認めがたき事実である。我校でも生徒総会など開こうものなら役員は生徒を集めるのに必死である。皆なるべくなら早く家へ帰って試験勉強でもしたいらしい。そうしなければならないほど私達の周りには自由がないのであろうか。それとも機械化されている社会に甘んじている私達がいけないのであろうか。 ここで一つ考えてみたい。確かに昔よりは受験などの意味で自由はなくなったかもしれない。でもそれ位で左右されるほど私達は弱くはないはずである。 もう少し自分自身を外に出しても良いのではないだろうか。昔は私達の年代になっても世界一周旅行とか、大臣になって日本の国を治めてやるのだとか、とてつもない夢を持っていた人が多いと聞いた。しかし私達の周りの人に将来の夢を聞いてみたまえ。ほとんどの人が普通のサラリーマンにはなりたくないが、とかBGでもいいわ、とかそれぞれ職種は違ってもみんなぞの範囲は狭く、結局は平凡な生活を望んでいる。今の社会としてはそれが一番幸せなのかも知れない。そして又、最後にはそこに行くのが一般なのであろう。でも私達は学生なのである。「世間の人の真似をするな。美しいものの存在を信じそれを見つめて街を歩け。最上級の美しいものを想像しろ。それは学生の期間だけにそれはあるのだ」という大宰治の言葉がある。もし、今の世の中がデッカイ夢を育てるのに不可能な場所であるのなら学生の期間だけでも、学生の間だけで許される夢を、理想を追求しようではないか。 できるはずである。私達は若い毎日が自分の夢につながるような日々であったなら、素晴らしい事ではないだろうか。 さあ、夢に向って前進しよう。
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