「先輩」
学校長 鈴 木 菊 雄 小学校(六年)中学校(五年)専門学校(四年)大学(三年)大学研究科(約二年)と幼碓園を除いて旧制のひととおりの学校を経験した。やはり印象の最も深いのは中学校。
四月下句のある土曜日の放課後、わたしたち新入ほやほやの中学一年坊主の委員三名は少し暗くなりかけた教室の片すみで,額をあつめて、話しあっていた、クラス会のあとの大赤字をどううめるかである。そこに長身の五年生がぶらりとはいってきた。両国にあった国技館(現在は蔵前)のそばの下町の中学校だったので,校舎の裏手のテニスコートもある第二運動場には、土俵もあったっ相撲の主将でよく見かけた顔だった。後に旧制高校の教授になられた漢文の先生が、まわし姿で,昼食後や放課後など、よくその五年生と相撲をとっておられた。一勝一敗、お互に相手を投げとばし、投げとばされ、一勝負つくごとにお互に豪快に笑いあうのである。多くの新入生は、そういう先生と生徒とに、どぎもを抜かれ、また、うらやましくも思っていた。その五年生がはいってきたのである。
ぎょっとしてそちらをむくと、「おまえたち、そんなに青い顔して何を話しあっている人だ。」と。勇気を出した一人が、「実は先輩、クラス会に大赤字を出して、困っているんです。」「いくらなんだ。」「八円ちょっとです。」会費は,一人三十銭で、五十人なのであわせて十五円。欠席も二・三名あったが、どう計算ちがいをしたのか、約六割近くの赤字を出してしまった。すしあり、天ぷらそばありで、同級生たちは大喜びで、「幹事うでがいいぞ。」と散会した。そのあと、いい気になって、どうだとばかり低い鼻をうごめかしていにが、さて勘定書を改めて合計してみると、大赤字に気がついて、みんなしょげかえってしまったのである。そのいきさつを話すと、「菓子はどのくらい残っているんだ。」「もち菓子とせんべいとが五袋ずつです。」「よし、では一袋一円で買ってやろう。ただ十円出したんでは、おまえたちも気持がわるいだろう。」「先輩、八円ちょっとあればいいのです。]「うん、そうか。残りは、すし屋に払いに行ったとき、すしでもつまめよ。心配賃だ。」と、袋を持って、さっさと出て行ってしまつた。
そのころ(大正十年)大川(隅田川)端に水練場があり、そこで下町の子は泳ぎを覚えたものたった。中学一年でも助教の免状を持っているものが多かった。その五年生は水府流の達人で、その点でも下級生に知られていた。その春の五年の箱根族行で、その五年生が同級生とこっそり宿を抜け出して、芦ノ湖を泳ぎまわって、先生に見つかり、さんざんお説教を受けたと聞いて、特に、三人のわたしどもは、大いに憤慨したものだった。
母校(中学)を思うたびに、第一にまざまざとまぶたに浮かんでくるのは、この水谷先輩の風貌である。
考える世界
前期生徒会会長 西 留 正 三 黙って、そして一人でいる時、誰にでもあることだと思いますが、いつの間にか自分だけの世界――つまり考える世界、回想の世界に、あたかも深い眠りに落ちるかの如く吸い込まれます。自分自身、またそれ以外の何の姿も見えず、音も問こえず、すべての感覚を失い、ちょうど無我の境地に達します。そんな時、僕は何となく嬉しい気持がするのです。別にこれといった理由もありませんのに。でも、人間にはこういう――、ただ考える、他からは何者からも邪魔されずに考えるという事が、必要ではないでしょうか。
現代がそんな暢気な時代じゃないなどという人も、中にはあるかも知れませんが、それは誤りだと思います。何事に於いても、自分のペースというものがありそれをくずさないたかこは、やは,り自分自身で考えなければならないと思います。考えないということは、結局は自分の生きてゆくための支え々持たないということになるのだと思います。他から命令されることに対して、何の抵抗も感じずに、ただ服従するなどということは、ただなさけないの一言に尽きます。
いつでも、どこでも、人間には、常に時間が与えられています。それを学校ではクラブや勉強や友達との雑談に、家庭では、兄弟との話や、中には勿論勉強に使う人もあるでしょう。しかしどの場合にも必ず余った時間、表現を変えれば、仕事に使わない時間があるのではないでしょうか。そんな時、自分で考える事、たまには果てしない想像や、色々な回想をすることをお奨めします。
楽しい事があった時や、つまらなく、苦しい事があった後などは、スポーツをしている時でさえも、本を読んでいる時でさえも、知らず知らずのうちに、回想にふけるのです。そして、考えます。ふと気がつくと、何十分もたっています。そんな自分が,時には妙に感じられます。
しかし,時間を浪費したとは、思わないのです。なぜならば、自分がどんな人間であるかわかるからです。回想に耽けると同時に、それは自己の反省ともなり、考えることによって、未来の進むべきよりよい道を、確実に歩むことが、できるようになります。たとえそれが遅いとしても!ですから、僕は物思いに、耽けることが好きです。
一人の人間として、自然から与えられるもの、特にこの場合で言えば時間というものを個人は自由に使えるという権利があります。
それは先にも、申しましたけれども、或る人は勉強に、或る人はスポーツ、また或る人は読書に、仕事に使いましょう。でも、その中に僅かでも、自分で考えるという時間を見つけ出して下さい。
社会における高校生
座談会 10月26日、中間試験も終わってほっと一息、皆遊びたいところを集っていただき、「社会における高校生」―高校生の課題一として話しあっていただきました。
かなり難しい問題というので、最初は思うように話が進まず、まず身近な問題点からということで、校内の問題点である、クラブヘ全員が参加していない――という点から話を始めていただきました。座談会というのは思うように進むものではなし、あっちへいき、こっちへいき、司会はあってなきが如く、出席者がかわるがわるその時の話をまとめてくれました。頁数の関係からその中でポイントと思われる点を抜蔡してみました。この話し合いの中から、いくらかでも参考になる点を見出していただければありがたく思います。
最後に、この座談会のために一日をさいてくださった方々に心からお礼申しあげます。
出 席 者
司会 足跡編集委員会
1年
中谷 まり子 ・ 西手 良豊
2年
大川 道雄 ・ 荻原 邦男 ・ 角田 陸男 ・ 国崎 亜星
篠宮 ちずる ・ 田中館 由紀子 ・ 水盛 七井
3年
鈴木 豊三郎 ・ 滝 芳江 (50音順)
西 手
今の高校生には、考えることが少ないと思うんだ。色々なものに対して。クラブにしても、意義と言うか、得られるものが何であるかということを皆よく思っていないと思うんだ。得られるものがあれば、自分から進んでそれに向かってゆくわけでしょ、目標があるんだから。その考えることが少ないから、クラブにしても遊び的になって……。やっぱり、得られるものをもっと自覚すれば、自分からクラブに入っていくと思う,・・!・・。
角 田
だけど、なにか割切れるものというのは普通やりにくいでしょ。これが大切だからやっておこうなんて、そういうのはちょっと反感感じるね。僕の場合でも、最初はクラブと勉強をはかりにかけた。でも、今はクラブが楽しくて仕方がないからやってるんで……はかりにかけたことを悔んではいないけど、それを割切ってやるというのはちょっといやだと思うな。
国 島
目的を考えてなんて言うけどね。現実に何かをやる時に、その目的を正確に把握して、それに向かって進むなんて人はいないんじゃないか。いや、いないと言うより、そういう風にやろうと思ったってできないと思うんだ。クラブにしたって、だいたいやってみて始めて・・…・やって振り返って見なきゃよかったなんて感激は湧かないと思うんだよ。
西 手
でも、そういう目的があるからこそ色々な事ができるんじゃない?最初に,ある程度自分の理想を持つことは必要だと思うんだ。それを達成するために色々な努力をする。それで人間的な進歩があると思うんだ、僕は。目的に向かって進み、いくらでもいいから前進する、そういう考え方を持っていいと思う。
水 盛
でも,今の高校生の目的というのは、大学に入りたいということじゃない。その過程において、何か得ることがあるかな。
滝
でも、目的と言うと学生の目的は受験だという、その考え方自体私達が一種の何かに凝り固ってるということじゃないかしら。他にあるはずじゃないの。
篠 宮
高校生が物を考えない。その原因として、世間一般に高校生を誘惑する物が多過ぎるということ。テレビとか、マンガにしても、いろいろ遊ぶことも……。
田中館
それは,ある程度個人個人読書をしていけば,自分の考えは生まれて来ると思います。それによってその目的を決めることもできると思う。
国 島
僕は、そういうものをやりたいんなら、やってもいいと思うんだ。その人がそれを一生懸命やって、自分のそういうものを見つけ出すのなら。マソ分が好きなら、マンガどんどん読みゃいいし……。それを他人が批難することはできないと思うんだ。
角 田
要するに、底に流れる信念というような物を持てばいいんだろう。
水 盛
信念を持ってマソガ読ひというのはどういうこと?(笑)
角 田
そういうんじゃなくてさ、マンガを見ても、それを只のマンガとして受けとる。それをわきまえる信念を持つ、そういうことを言ったんだよ。
滝
マンガをマンガとわきまえて読むそういう時間は、考えるということから逃避してるんじゃない?誰かが言ったのだけれど,友達のこととか、クラスのこととか、クラブのこととか考えるひまないから,てっとり早く時間を潰すのにマンガが流行するんだって。そういう考え、ちょっと問題じゃないかな。
国 島
もちろん、マンガばかり読んで考えることを逃げようと思っている人もいるかもしれないさ。そうい、,うことじゃなくて,考える時には考えるということで。物が多いということは,自分の考えがはっきりしていれば、かまやしないと思うんだよ。もし、そういうものに負けるんだったら、それはもう落伍者みたいな人だと思うんだ。だいたい現代高校生は考えないなんて言われますけどね、どんな人だって考えてると思うんだ。生き。ているということ自体、すでに考えてることじゃないかな。
篠 宮
でもね、現代高校生はもちろん考えるわよ。だけど、その考えることがすごく利己主義的なことじゃないかしら。自分のことに関しては一生懸命考えるけど、他人のことに関しては積極的に考えようとしない。
国 島
それは、もちろんそうだけれど、そう言ったら高佼生も何もないと思うんだ。人間、全世界の人間の共通になっている精神だと思うんだ。ある種の評論家とか、特定の職業についている、そういう人はしようがないことだと思うんだ。
篠 宮
でも、それは昔よりひどくなったんじゃないの。
国 島
だけど昔の人は現在接触してる世の中しかわからなかったわけでしょ?ところが現在は報道機関の発達で、あらゆる世界のことがわかるようになった。それを全部真剣に考えるなんてことできないでしょ。重要なことは皆考えてると思うんだ。どんな人でも今はベトナムの状勢は考えている。ある程度自分に関係があるからね。自分にまるで関係の無いこと、○○さんが自動車にひかれた、どうしてひかれたんだろうなんて真剣に考えたって仕様が無いでしょ。
篠 宮
現代の高校生の場合、同じクラスにいる友達でさえも、自分の友達でさえも、深く相手のことを考える、そういう風潮が無くなってきたんじゃないの。
国 島
それは昔と変わっていないと思うんだよ。今の方がむしろ民主主義のおかげで色々な人のことを考えてると思うんだ。
水 盛
僕等倫理で、ユートピアが課題にでてるね。女の子二人で話してるんだけど、私ユートピアなんて嫌いって言うんだよ。なぜかって言うと、あれは古典的な共産主義なんでしょとかなんとか……。その場では,共産主義はいけないっていうことになったんだけど,一冊の本だけでこれはいけないなんていう、やっぱり考えてない証拠じゃないかな。
西 手
だから、そのユートピアの話にしても、いけないと言ってもなぜいけないかまで考えてないと思うんだ。ただ、漠然といやだという。だけど、今一歩つっこんで、なぜいやか、それを理論だてて言えることの方が必要だと思うんだ。
角 田
それは高校生において著しいけどね、大人達だってさ共産党って馬鹿にした言菜で言うでしょ、アカイハタとか。それから朝鮮人とか。自分ではそれに関して無知なくせに、あたかも知ってるがごとく馬鹿にするわけだよ。自分でよく知らない言葉を軽卒に使う,そ
ういうのがあるんじゃない。
国 島
自分で考えてるんじゃなくて、はたの人がそう言うものだからっていう協調性が多分にあると思うんだ。
水 盛
つまり、自分の考え方が信用できてないっていうことね。
角 田
ベトコンとか何とか、軽卒に使うということ。ああいうのは、友達関係ね、そういうのを使うことによって親密感を味わえるんじゃない。
水 盛
もちろん、それもあるだろうけどもしもそれが慣習化されて……それがだんだん発展してね、そのうちこのアカめとか、そういうことが無いとは言えないでしょ。ある程度コントしないと、どこへいくかわからない。お、民主主義めとか、そういう事になっちゃうよ。
滝
先生の悪口にしてもね、一人が言うと皆でパァッという場合があるでしょ。自分はそうも思っていないけれど、まわりで言うから言っちゃったって場合が。
荻 原
群衆心理ということ、僕等が暗示にかかり易いということでしょ。
水 盛
それは国民性だね、大和民族古来の。不和雷同ということはね、日本民族の宿命だよ。 もちろん宿命というのは打破されなきゃいけないよ。
国 島
時代の風潮に流されて、勉強しなきゃだめなんだ、いい大学へ入って、いい会社に入って、いい生活して、最後は金持ちで死んでいくと、それじゃ自分の生きて来た意義なんてわかんないよ。やらなきゃならないということでどんどん押されていくんじゃなくて,自分の個性を生かした生き方をしなければ……。
司 会
高校生が物を考えない、それが今までの焦点でしたけれど、ここらで最初の方に出た現代高校生に自主性が無いということ、それをもう少し突っこんでみたいんですけれど、なぜ自主性が無いかということですね。
西 手
一つには情熱が無い、物事に対する。
水 盛
先行の不安。
国 島
こういうことやったら、後で何か起る?
水 盛
これやったって、どうせ……無力感か。
大 川
結局,社会環境というか、社会に対する望みがないという事にもつながるわけ。
角 田
やったってしようがないということ。大きな力の前ではどうせ―。
国 島
つまり,これをやってもという結論を先に考えちゃうわけでしょ。いい結果がある場合はやる気を起す……。
西 手
それは、結局利己主義ということになるんじゃないの。
鈴 木
自主性というのは、自分を中心として考えた場合であって、それがもし社会に対して悪い場合、自主性と利己主義がすりかえられるんじゃないの。自主性と利己主義はちがうと思うよ。利己主義というのは、自分にいいことなら、はたがどんな風でもかまわない……。
鈴 木
でも,自分がそうした場合社会が困る。ある主張が現代においては正しくとも、ある社会では利己主義になる……。
角 田
だって,正義は不変なんじゃないの。
司 会
少し、焦点がそれて来たようですから、もとにもどして……。
篠 宮
やってもどうせ同じだということそれは大きく言って、だいたい自分の一生が決まっちゃってる。先が見えてる。夢が無いということ。
滝
やる気が無いというのは、それにあまんじてるということね。
西 手
自分がある階級にいると、それから下は行けても上へは行けない。
自分の生活範囲の中でいい生活をするっていうことじゃないの。
篠 宮
結局、こじんまりしちゃってる。夢が無くたっていいじゃない。まあ,あった方がいいけど、そんな大きなことをやんなくたって、自分の生活の上でこれは良かったなということさえありゃあ、他人があの人はたったあれだけのことしかしてないと思ったっていいじゃないですか。
西 手
それは小さい考え方だよ。それは世の中のためっていう以外のものでしょ。
国 島
そうか、それが自主性を増進させないわけだ。(笑)
滝
でも、そういう考えは往往にしてでてきちゃうのよ。
大 川
現代の高校生には夢が無いっていうことは、確かにあると思うんです。現実的にものを考えすぎる、そういうことが、あると思う。
角 田
それもやっぱり風潮だと思う。
国 島
だから、昔のように学校もいかない時代、そういう風だったら夢も大きく育つけどさ。
角 田
最終的にはとにかく、過程においては制約を受けてるよね。
篠 宮
現在の私達の夢というのは、ほんとに現実的な夢でしょ。でも、それが私達の夢じゃないの。
水 盛
昔の人はね、それはあまりにも夢としては小さいというんだよね。
鈴 木
それにね、今の人の夢はどうなろうって、自分で考えて作った夢じゃないわけでしょ。ただイメージで、何だか知らないけどまあこんな風なのがいいんじゃないかなっていう……なんかはっきりした。僕の夢はこうだっていう、夢じゃないみたい。
荻 原
平凡に生きよう、それも一つの夢ですよ。
西 手
だから、楽な生き方しようという考えが多いんじゃないの。平凡な道を歩くというのは楽なことでしよ。百万長者になる、今は百万じゃ小さいか、(笑)一億万長者になりたい、そういうのはやっぱり危険がともなうよね,結局,平凡にサラリーマンで暮らす。
角 田
それに、あまんじてるんじゃない。だから,二つ持ってるんじゃないかな。ほんとうはこうなんだけれど、やっぱりサラリーマンになって……という。
篠 宮
今の高校生は、すごく利口になっちゃったということ言えるんじゃないの。可能性の無い夢なんて考えたってしょうがないっていう。
水 盛
小利口になったんだね。それも自主性のない原囚かな。変に聞きかじっちゃってさ,変な風にこれでもう人生わかっちゃったというような……。
司 会
現代の高佼生の夢、それは小さくとも確実に実現する夢をということなんですけれど、そういう風潮に対して、どうお考えになりますか?
国 島
僕はできる範囲で自主性を持てと言いたいんです。生徒会の立候補にしたって、あれはでっかい望みでも、なんでもないと想うんだよ。現実に即した,実に簡単な自主性をいかすということでしょ。それさえもしないというのは…。
水 盛
ずいぶん小市民的にまとまるね。でも大きな夢を持つこととは?
滝
さっきの夢の考え方なんだけれど二つの考え方があって、現在は小さくて生きていく為に確実性のある夢、でも人間は両方を持っていると思う。ところが、実社会とか自分の身の回りを考えるとどうしても大きい夢をもっていくと、一つ一つこわされていくわけです。今は高校三年間やってきて一年生の時の夢がいくつこわされたかということ。それだけ社会において束縛されてしまっている。だから結局人間は、二つの夢をもっているけれども実社会において一つずつ夢がこわされていってしまうというのではないかしら……。
国 島
だから二つの夢があるのは確かだと思う。そして二つの夢とは、全然実現できない夢、たとえば……
滝
いいえ、夢は実現できるのよ。
国 島
いや、全然できない夢。たとえば空想みたいなものをもっていると思うよ。つまり,可能性全然少ない夢と、全然可能性のある夢、例えば自分でもできる夢、試験で満点を取るとか、そういうのならば自分の努力次第でできるわけでしょ。(笑) そして、できない方の夢とは、できないなりに自分でわかってくることでしょ……。
司 会
本当は、こうなんだけれども実際にはこうなるだろうということですか。
鈴 木
いやその逆をやっているんじゃないの。つまり、社会がこんな事があるだろうから駄目だとか、その社会がこうなるってことを除いてただ自分の考え方を夢っていうのを、ただそれだけで延ばしていったのを言っているんじゃないの。
角 田
大きな夢?
国 島
大きな夢?大きな夢とは自分で実現しないのがわかっている夢のことじゃないかな……。
水 盛
つまり試験で百点取ったということも大きな夢ということ?
国 島
例えば百点取ろうということは,小さい夢だと思うんだ。小さな夢というより実際に即してる夢でしょ。
水 盛
例えば30才になるまでに月に行こう。だったらそれは大きな夢と言えるんでしょ。全然実行不可能な事なら言うこともできるけど、だけど百点取るのと君の言う大きな夢とは、その道において権威と呼ばれるようになって、ぐっと資産は増して、そういうのが大きな夢というんでしょ。その程度なら百点を取るのと同一ではないの?
国 島
だから言っているでしょ。だからできるかも知れないけど小さい夢よりは、はるかに大きな夢でしょ。
司 会
比較で言っているんですか。
国 島
まあ、そうですね。だけど自分から見れば大きな夢。
西 手
だからサラリーマンになるか社長になるかどうかというんじゃないの……。
国 島
まあ、そういうことですね。(笑) つまり自分の段階からみて大きな夢。
滝
私が言うのとは違う。小さい夢とはどうしようもなくなって生まれてきたもの。
国 島
それは夢じゃない。
滝
でも甘んじちゃって。
国 島
それは夢じゃない。未来を予想しているだけで……。
荻 原
でも滝さんは、物に、まぁ、長い物にはまかれろという中で育ったのが小さな夢で、それる打破して何か一つやってやろうというのが大きな夢なんでしょ。
滝
だから始めは誰でもそういう大きな夢を持っていると思う。ところが一つずつこわされていく。
篠 宮
結局私は何故自主性がないかというところから始まっていくと社会というものにぶつかってしまうということ……。
滝
そうね。
国 島
幼ないときは自分がどういうものができてどういうものができないということがわからないために鞍馬天狗になりたいとか、自分がどの程度社会に対して物事が出来るかとかがわからない時の夢は大きいと思う。例えば月に行くとか。でも現在の我々はある程度可能なもの不可能なものがわかる。
滝
私の夢と考え方が違う。私の重点を置いている夢というのは、もし自分が本当に自分に正直に生きていけたらということ。そういう自分の一つの大きい目標を持ったわけ、ところがそういう夢を持っていても社会に直面すると自分を通して行くだけではいけない場合があるでしょ。だからちょっとした事で自分の信念を曲げて近いところのこぢんまりとした妥協した一般の人と同じ意見に落ち着いてしまう。
国 島
要するに最初大きかった夢が色々な社会に接しているうちにできなくなっていくというわけ……。
滝
だから夢は何になるということではなくて……。
国 島
では大きい夢と小さい夢を持っているとはどういうこと?結局最初大きかったものが小さくなっていったということ?
西 手
今でも持っているんでしよ。小さくなった時でも……。
滝
そう。いつでも持っていても実際的なところに持っていくとできなくなってしまう状態のときがあるでしょ。そういう時やむなく小さくなっちゃうということ。それで小さいのと大きいのと二つあるって言ったのよ。
国 島
でもそう言うとおかしいんじゃない?
滝
だから現在は実社会にでても許されることが少ないから小利口になって自分のできる範囲で幸福になろうという方だけになってしまっている。だから社会の中で負けないで自分の意志を貫くという人がいなくてはならないんじゃないかと思うんだけど、そういうのが難しい問題なのね。
篠 宮
だから社会にさからって生きて行くことは絶対に無理よ。だからこそ学生の間だけでもそういう打算的な考えを持たないでいくことが必要なんじゃないの。
滝
でも学生時代だけでなく社会にでても必要なんじゃないの。
篠 宮
でもそれは無理なんじゃないの。
水 盛
じゃ意味ないよ。
滝
だから無理じゃないのって言って妥協しちゃうからいけないのよ、(笑い)
国 島
要するにそうありたいという夢ですね。理想というものですね……
滝
でもそれが本当の姿じゃないのかしら……。
国 島
でも実際は無理じゃないの、だからある程度自分のできる限りゆするということでしょ。
滝
でもそこで言いたいのよ。何故無理かって……。
国 島
夢を持だない原因として実現していく過程において社会にけずられてゆくといったこと、それじゃ自分の活動できる範囲でしているかというと、していないじゃない。
酉 手
夢というのは結局目的だと思うんだ。夢が大きい小さいというのは目的が大きいか小さいかということにつながると思うんだ。
国 島
要するに夢がないということは目的がないということ?
角 田
夢というのはそういう事じゃないんじゃない。夢が無い生活というのは可能性がないというんじゃないの?
司 会
そろそろ時間のようですから,この辺でしめくくっていただきたいと思います。
水 盛
十重,二十重と取りまいた教育制度の波を力いっぱい泳ぎぬいて高校生らしく行動して学校外に出ても高校生らしく行動する。
司 会
高校生らしくとは具体的に?
水 盛
世の範となるように、服装は勿論として勉学にいそしみ、かつまた人間として、これが高校生らしいありかただね。
国 島
現実には勉強もしてクラブもしてということ。
水 盛
それが高校生らしくで要約されるんだけど、高校生らしくといわれても困るね。(笑)
滝
私は高校生としてではなくて、これが自分だというものを見つけてほしい。
水 盛
自主性をもたずにそれが可能でしょうか?
滝
自分自身で考えることだったら絶対に可能じゃないの。
水 盛
でも自分の真の姿を見分けるということは、非常に難しいことじゃないの。老境に達し死を目前にした老人にして始めてわかる心境ではないの?
滝
だから自分の真の姿を見つけるということではない。自分をこう持って行こうということよ。
角 田
十分を充分に延すということね。
国 島
つまり現代の風潮に流されず自分の個性を持つということね。
滝
ある程度の型にはまったとしてもこれだけは絶対にというものを持ってほしいということ。
国 島
あの人はこういう人だという?
水 盛
そういう人は必要だね。確かに今日そういう人があまりに少いと思う。
司 会
つまり常に個性の伸長を心がけていけということですね。他にありませんか。
水 盛
つまり現状において何よりもそれが大切なんでしょうね。
司 会
では今日は、どうもありがとうございました。