ジャズもロックも良い! しかし元々は核兵器を持つ強国アメリカのミュージックである。
イチローの背番号と同じ51番目の州、日本なればこそ、僕らはこれを無意識に受け入れ、70年間聴いてきた。
しかしフラメンコは、核兵器もなく、徴兵制もやめたスペインの、主に流浪の民ヒターノの音楽である。世界戦略のない音楽である。だから皆さんは知らない。
ふつう音楽というのは、旋律の美しさとリズムの喜びとに支えられるが、フラメンコ(カンテ=唄)は一音ごとの垂直な唸りや叫びが自ずとリズムの喜びを得ている。
「グローバル」な力は刻々フラメンコにも押し寄せ、“音楽'化しつつある。
「何じゃい! こいつは?!」という、美醜を超えた怪物が、昔のフラメンコにはいた。今はいない。いや、いたのだが、昨年のクリスマスに死んでしまった。
マヌエル・アグヘタという、カンテの怪物だ。押しも押されもせぬ、カンデ・プーロ(純粋なカンテ)、カンテ・ヒターノ(ヒターノのカンテ)の大立者であった。ダビッド・ボウイを悼んで、こちらを悼まないのは、文化人の恥だ。だから、アメリカの方ばかり向いている皆さんにあえて、これを記す。
マヌエルと僕は40年来の友人であった。彼とよく空腹のままマドリードをウロついた。夏なのに冬物背広を着て、パルからバルを巡回して、一場のカンテのフタ(宴)をおごってくれる小旦那を探すのだ。大抵は空振りで疲れ果て、僕のアトリエで水を飲んで寝た。
マヌエルはその頃、国民賞を得て数々のレコードを出してはいたが、そのカンテはあまりに渋く、個性的で、アクが強く、通向きで、一般向きではなかった。
おまけにその厄介な性格。月夜の狼の、ようなその風貌。笑うと総金歯だった。自分以外の唄い手を皆「ニセモノ」と決めつけ、指をさしてまで悪口を言ったりするから、各方面から憎まれた。
むこうから、いかにもヒターノの大仰な、ダブルの背広に身を固めた爺さんが、金ピカのステッキをついてやって来て、「よお! 世界一下手くそな唄い手!」と言った時、マヌエルは爺さんを抱擁して総金歯をむいてその頬にキスをした。
冬の深夜、道に寝転んで泣きわめく見知らぬ女の酔っ払いを僕のアトリエに呼び込み優しくソレアを唄ってやったこともある。その時女は「あっ! あんたを知ってる! アグヘタだ、アグペタだ!」と喜んで、1杯のコーヒーを飲んで帰っていったっけ。
嫉妬深さは度を越しでいた。僕とマヌエルの彼女がしゃべっていると、必ずその狭い間に割り込んでくるのだった。
字は読めなかった。「字を読める奴らのカンテはダメだ」というのが持論だった。
彼と彼の従弟(いとこ)のミゲルがしゃべる「哲学」は、ソクラテスとプラトンの会話のようであった。つまり、こんな風だ。
「俺は女を欲する。なぜだろう?」
「分からねえ。俺だってそうさ」
「分からねえのにそうなるのは、それを命じてるヤツがいるからだ」
「誰だ?」
そうしてマヌエルとミゲルは、黙って上の方を指さすのであった。神。
マヌエルは死んだ。父も姉もクリスマスに死んだ。だからマヌエルは、クリスマスを恐れ予感していた。がんの痛みを抑えるためにモルヒネを打たれた瞬間、彼はベッドでうしろ向きに倒れ、絶命したという。
長い長い「白鯨」のような僕らの物語だった。マヌエル、またな!
朝日新聞GLOBE 2016.2.21. より