当店&Bでも1点のみの入荷となっております 貴族共和制の復活を望む一部のポーランド人は公国を支持したが、実態はフランス帝国の衛星国に過ぎなかった。 1683年にオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を撃退し、全ヨーロッパの英雄となったヤン3世ソビエスキ王は以後、行き過ぎた地方分権による無政府状態化の阻止を目指し、中央政府の権力を強めるため世襲王政の実現と、王およびセイム(国会)のそれぞれの権限の明確化による立憲君主制の確立を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。 ジグムント2世アウグスト王やステファン・バートリ王を支えたこの宰相ヤン・ザモイスキこそ、この時代のポーランドの政治・経済・軍事の全ての成功を実現した稀代の大政治家であると考えられている。 1973-74年のオイルショックもかさなり、借入れによる市場拡大や経済成長は短期間で終わる。 この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。 立憲君主制、民主主義の王政に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力はロシアのエカチェリーナ2世と結託した。 その後、王国の中央政府の権限は急速に弱まり、国庫は逼迫し、国力は衰退していった。 1791年、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「5月3日憲法」)。 この憲法によって王権の世襲制(選挙王政ではあるが以前のように個人選出ではなく王家の一家を選出する)とともに立憲君主制が成立し、それまで名目的には緩やかな連邦制をとっていて行政が非効率だったポーランド=リトアニア共和国は名実ともに単一国家となった。 「黄金の自由」に関するヤン・ザモイスキの開明的思想や政治態度はその後もザモイスキ家を始めとした多くの人々に受け継がれ、彼の時代から2世紀の後にポーランドが存亡の危機に面した際ヨーロッパ初の民主主義成文憲法(5月3日憲法)を制定した基礎となっていった。 18世紀後半にはポーランド=リトアニア共和国の国土が他国に分割占領(ポーランド分割)された。 この時期の戦争と外交政策は大規模な領土拡張を生むことはなかったが、国家を深刻な戦乱に巻き込まなかった、国は封建制となり農業国として発展した。
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