作家になりたいと思ったのは20歳の頃だった。それが僕の夢だった。ノートに色々、書いてみたが物になったのは、2つの掌編だけだった。父に読んでもらうと「珠玉の短編小説だね」と言ってくれたが、発表する機会もなく、 やがて原稿もなくなった。時は過ぎて、僕は42歳になった。そして、ある夜、高円寺中学3年時、素晴らしい美少女の、栗田きみ子さんと恋をした事を思い出した。これは小説になるかも知れないと、書き始めた。 かなり、時間はかかったが何とか66枚の小説が書けた。タイトルは「十五歳の頃」とした。それから次に「五月の風」を書き、「ファイナルアプローチ」も書けた。しかし、やはり発表の機会がなく、原稿は机の引き出しにしまったままになった。やがて僕は66歳になった。平成26年6月頃、また書きたくなり、書き始めた。そして、「約束」「複雑な関係」「十日感の恋」を書いた。僕はこれを何とか発表したいと思った。方法は自費出版しか無かった。それでインターネットを検索してみた。すると幻冬舎がでていた。幻冬舎は、郷ひろみ、の「ダディー」を初版で50万部、出版した事で有名だった。幻冬舎は博打を打つと言われていた。それで画面にあった、欄に必要事項を入力して送った。すぐに連絡先が送信されてきた。そして電話して行くことにした。 代々木からタクシーに乗って幻冬舎へ行った。応対にでた栗田さんに原稿を渡すと、彼は原稿をザクザクと見て「青春の息吹を感じます」と言った。僕はあっけ取られた。読むというより、ただ見るだけで、寸評した。 まるで手品みたいだった。でも原稿を預けて帰った。家にかえると、やがて見積と説明書が送信されてきた。見ると、単行本、1150部、200万円前後となっていた。僕はそんなお金は無かった。 でも母は2000万円くらいの資産があった。しかし、それは兄が管理していた。僕が持っているとすぐ車を買ってしまうからだ。兄に電話すると「そんな夢のようなことはだめだ」といった。 でも僕は講談社にいた友人が「能動的になれ」と言ったので、またインターネットで検索してみた。今度は文芸社がでていた。気楽にお電話して下さい、と書いてあったので電話してみた。すると、是非拝見したい、といったので、新宿にある文芸社に行くことにした。幸いコピーした原稿あったので行くことにした。文芸社に行くと山田さんが応対してくれた。彼は「原稿を読んでいるあいだこらを見てください」と言ってパンフレットをくれた。 彼は原稿を一枚ずつ読んでいたが、一枚2秒くらいで読むのでやはり早い。読み終わると「早読みしましたので後ほどゆっくり読ませて頂きます。複数の者が読みます」と言ってあとはにこやかに歓談した。 文芸社からも見積と資料が送られてきた。見ると、四六版、1000部、155万円となっていた。兄にいうとやはり「だめだ」と言った。仕方なく7月7日、両社に、断念する、と連絡した。 やがて真夏になった。暑さは息ぐるしい。さらに出版を断念したとい思いが胸を苦しくした。9月下旬にまた文芸社か見積が送られてきた。今度は、文庫本、500部、115万円、だった。 これなら何とかなると思った。そして三井物産の友人が「著名人の推薦あれば売れる」と言った。僕の知っている著名人は海江田万里さんだった。彼は高円寺中学、鷺宮高校と一緒だった。そして6年くらい前から交信 していた。彼に相談してみようと思い、原稿を送った。すると彼から「面白いから出版したほうがいい。推薦はいつでもどうぞ」という気の良い彼らしい返事が送信されてきた。 後は資金だった。パンフレットにローンがあると書いてあった。それで見積を送ってきた吉田さんに相談すると100万円のローンが組めた。それで10月上旬に出版契約をした。そして最後の「志乃さん」を書いた。 編集者は吉澤さんだった。一度だけ打ち合わせて、あとはメールで作業をした。そして校正になり、順調にいき平成27年4月に本が出来た。 6月15日発売された。僕は「夢を叶えた男」になたった。
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