壇上にすっくと立たれた氏は旧制高校生の面差し。あるいは血気に逸る青年士官とみる。
しかし、その本質は一線も二線も異なる漢である。常の春秋会会合と異なる集まりを見る。日本の現状への不満、不安を氏の講演からヒントを頂き、胸のつかえを晴らしたい願いをもって馳せ参じているのである。
氏の持つカリスマ性に男のロマンを希求する人々が多い。が、私は氏の中に解決出来ない涙の壺が胸にあると看做している者である。御本人の語るエピソードとして、われらが「稲穂」で無銭飲食にならないために、一年住まわせて頂きラーメン作りを手伝ったなど具体的に青年の日の「生活」が見える。
新宿名物ママの「利佳」で、すれ違ってはいたが常連であった。酒を一滴も飲まぬ私と大いに飲んでいた氏を眦をあげ、不満を抱いて生きている氏を危なさを哀し愁いを感じていた。が、いつか忘れていた。
今、此処に「春秋会」の中で、深い部分で同志的な要素、見出せたのは、歳月と年齢のなせる効である。
早稲田大学春秋会講演内容
一 薩長藩閥政府をクーデターで追われた大隈は、反政府、反権力の砦として早稲田を建学し、立憲改進党を結成し、報知新聞を創刊した。反逆者製造のための学校だった。
二 東京専門学校の早稲田大学への変更は大学令の改正により専門学校から文部省監督下の大学になってから。これに反逆したのが尾崎士郎だった。「人生劇場」執筆は国家の管理下に入った大学への激しい抗議が動機原点だった。
三 早稲田は幾多の政治家を生んできたが、大学令改正によって私学は模範国民を養成する(将官ではなく下士官養成所になり下がった)学校になった事により天下国家を治める気概を失ってしまった。この結果、近年では竹下登氏、森善朗氏、小渕恵三氏などの首相を生んだが、彼らは結局、権力(匿名の権力者たる官僚)の下僕に過ぎなかった。唯一の例外は石橋湛山だろう。石橋は早稲田を放校になった尾崎士郎の庇護者だった。
四 石橋は占領下、吉田内閣の蔵相となり、当時の国家予算のほぼ30%を占めていた米軍経費の大幅削減を求めるなど、徹底してマッカーサーと対決する気概を示した。だが、マッカーサーの下僕である吉田にパージされ、公職追放となる。この石橋はサンフランシスコ講和条約発効で日本が独立を果たすや、鳩山の後継として首相の座に就き、独立国の総理大臣として米国従属の姿勢を根本から見直そうとした。僅か二か月余で権力の座から追われる。独立自尊の実践が如何に困難な事かを思い知らされる。
五 以降、日本の世代円周は米国の支配下にあって、米国の顔色をうかがい、彼らの僕(しもべ)となっている。早稲田はその建学の精神を以って、日本独立の先頭に立つべし。 以上
石橋湛山先生に対する熱愛を具体的にサークル化し、ひとつの研究会、具体的に申せば私が十年練って少しずつ堀を埋めて人々に助けてもらい、校友稲門会に属す事が出来た稲門連句会俳諧「西北の風」のような、一から分かりやすく語り合う「湛山会」を作ろう!と呼びかける事が氏の中心としての今回、講演会の大切なところではないでしょうかと、僭越ながら提案いたします。 (伊藤哲子記)