これはテロと呼ぶべきだ
津久井やまゆり園の事件は、特定のターゲットを殺傷したという点で、テロと言っていいのではないだろうか。重度の重複障害者は、「安楽死」させるべきだという考えは、ナチスの「優生思想」と重なる。 去年の茨城県の水害にも、九州の地震災害にもほぼ沈黙した安倍政権は、この事件でもやはりほとんど沈黙を守っている。(厚生大臣などに動きは見えたが形式的な否めず、あいかわらずの無関心ぶりが目立つ。) 障害といっても、何が障害で何が個性なのかというのは、文化的、政治的問題だと思うのだ。たとえば、ぼくの左利きは個性なのだろうか?昔、親や教師が矯正させようとしたのは、左利きのままでは将来不利になるとか、不幸になると考えたからだ。すると、その頃の左利きは限りなく「障害」に近いことにならないだろうか。矯正は失敗し、ぼくは左も右も半端にしか使えなくなってしまった。ぼくが「左脳的」な思考が苦手なのは、矯正の後遺症として左脳が発達しなかったか、破壊されてしまったのかもしれない。としたら、これは「障害」ということにならないか。(それに、矯正しなければならない左利きである自分に、強い劣等感を持ったことも事実である。これは以下に述べる近視でも同じだ。) ぼくは重度の近視で、メガネなどの矯正機器がなければいわゆる弱視と同じである。しかし、近視や遠視を障害と考える人はおそらくいないだろう。 つまり障害者を障害者たらしめているのは、矯正機器の有無や社会的な援助や、人々の関心(無関心)などの総体であって、本人や家族が責任を負うべきものでは絶対にない。 障害は自分と無関係ではなく、自分の個性や弱点だって、時代や国が異なれば障害なのかもしれないと考えれば、簡単にわかることではないだろうか。
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