必ずしも差別的とはいえない?
先日、新聞にいやな記事が載っていました。内閣府特命「沖縄及び北方対策、クールジャパン戦略、知的財産戦略 、科学技術政策、宇宙政策、IT政策」担当大臣である鶴保庸介氏の記事です。彼は、沖縄の米軍ヘリパッド建設に対して抗議活動をする人を、大阪から派遣された機動隊員が「この土人が!」と罵ったことについて、「土人という言葉は必ずしも差別的とは言えない」と擁護したというのです。
ぼくは小学4年生のころ初めてメガネをかけました。いやでしかたありませんでした。案の定、「やーいメガネ!」とからかわれました。相手にくってかかると、「へーえ、メガネをメガネと言ったら悪いのか!」と言い返されました。
アイヌの人たちの多くが、子どものころ「あっ、イヌが来た」と言われてくやしい思いをしたといいます。抗議すると「お前じゃない、犬が来たと言ったんだ」ととぼけたり、「アイヌにアイヌと言ったら悪いのか」と開き直られたりしたものだと。 そのアイヌをかつて「旧土人」と呼ぶ「旧土人保護法」という法律がありました。保護を謳いながら実際にはアイヌを差別し、土地を収奪する役割を果たすような法律でしたが、廃止されたのはなんと先ごろの1997年でした。 土人とは本来は「土着の人」「先住の人」という意味です。ですからこの言葉には本来差別的な意味合いはないのでしょう。しかし、戦後生まれのぼくたちにとって、土人とは漫画「冒険ダン吉」に出てくる、石器時代を生きているような、裸で暮らす人々というイメージがつきまといます。だれかを土人と呼ぶことにはためらいがあるし、だれかに言われれば怒りを感じるのはそのためです。 「やーい、メガネ!」とからかわれることを訴えた生徒に「メガネという言葉は、必ずしも差別的な言葉ではない」と言う先生がいたら、マスコミや政治家は大バッシングをするはずです。いじめを放置、教育者失格などと。
鶴保氏の発言は、冒頭の「メガネと言ったら悪いのか」と同程度の、問題の本質をねじまげるものでしかありません。昔の親なら、子どもがこんな減らず口をたたいたら、思いきり張り倒したでしょうに。しかし今では親が、相手の家、あるいは注意をした先生の学校の校長室に「メガネと言ったら悪いのか!」と怒鳴りこみ、土下座をさせる時代です。そういえば、身内の不祥事をかばう政権の面々が、まるでモンスターペアレントに見えてきました。
ぼくが「メガネ」といわれてくやしかったのは、メガネをメガネと言って何が悪いと開き直る悪童の、相手を見下す卑しい根性と、屁理屈で開き直る卑怯さに対してでした。「この土人が」という言葉には、沖縄を植民地のように見下す内地人の優越感が透けて見えます。(因みに、戦後も沖縄を占領し続けた米軍は、沖縄は日本の植民地だと認識しているといいます。米軍には、植民地沖縄を日本から開放したのだという意識があったのかもしれませんね。脱線ついでに言えば、米軍が沖縄で土地を取り上げたやりかたは、アメリカ先住民に対するのと全く同じだという指摘があります。) 現政権の、沖縄に対する態度も、内地だったらあり得ないような高圧的なものです。「土人」発言は、権力の走狗(かつてぼくたちは、機動隊員をそう罵倒したものですが)が、そういった雰囲気を察知して浮かれてしまったということなのでしょう。
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