叱られた話……ありがとうとなぜ言えん!
「ありがとうとなぜ言えん!」 背後から鋭い声が追ってきた。思わず振り返り、頭を下げる。 「申し訳ありません。ありがとうございます。」
……40年以上前の話である。夏休みと週末に居候していた乗馬クラブに、時々乗りに来るEさんというお医者さんがいた。そのお医者さんは実は武田流弓馬術、つまり流鏑馬の一門に所属していて、まもなく鎌倉の鶴岡八幡宮に奉納される流鏑馬に出場するという。そこで、クラブを代表して、会員の子どもたち数人を引率することになった。「中学校の先生だから、引率は得意でしょ。よろしくね」というわけだ。いつもなら「おい浜田くん」と呼ぶスタッフも、こんな時だけ「先生」と持ち上げる。 鎌倉駅前で待ち合わせ、小町通りを抜けて八幡宮まで歩いて行く。若宮大路の突き当りに大鳥居があり、太鼓橋を渡るとそのまま参道だ。その参道と直角に交わる土の道が流鏑馬の馬場なのだった。すでに掃き清められ、砂利などが取り除かれている。東の端には何頭か馬が繋がれ、出場者らしい稽古着姿の人もちらほら見える。 着いたらEさんに挨拶するように言われていたのだが、姿が見えない。そこで稽古着に烏帽子をつけた老人に尋ねることにしたのだ。 「すみません、今日出場されるE先生は、今どちらにいらっしゃるでしょうか?」 「まだ控え所にいるはずだが、まもなく出てくるでしょう」と、老人が教えてくれた。 「どうも」と礼を言って子どもたちに向き直ったその時、冒頭の叱声が飛んできたのだ。 「ありがとう」と言わなかった?何と言ったっけ?そうだ「どうも」と言ったのだ。しまったと思った。自分が悪いと思った。 そして恥ずかしかった。大人のぼくが子どもたちの前で叱られたのだ。しかも子どもたちは、「乗馬クラブの変なお兄さん」が実は学校の教師だと先週聞かされたばかりだ。
この出来事の記憶があまりに強烈だったためか、その後、Eさんに挨拶はしたのか、流鏑馬はどんなだったのか、ほとんど覚えていない。私立雙葉学園に通っているという女の子から「気にしなくていいよ、セーンセ」なんて慰められたような気がするけれど。
こんな恥ずかしい経験を告白したあとで、敢えて開き直って言うのだが、「どうも」という言葉を広めたのはNHKである。よく覚えているのは高橋圭三アナウンサーの口癖だ。「どうもどうも」は、彼のキャッチフレーズともなった。 いつしか「どうも」はNHKのキャッチフレーズとなり、「ありがとう」や「ごくろうさま」「お世話になります」「失礼します」「さようなら」などの代わりに使われる便利なことばになった。 現在の首都圏ではどうなのだろう。少なくとも小地方都市の酒田では、普通に使われている。なにしろ地方ではNHKがヒョージュンゴのテキストなのだから。
今思うとあの老人は、実は武田流弓馬術の家元だったのかもしれない。この無礼な若造めと腹を立てたのだろう。よくぞ大人を叱ってくれたものだと本気で感謝している。いや20代のぼくは大人には見えなかったのかも?
|