すぐれた映画を生む国
1980年代のある日、ちょっと時間つぶしに入った場末の映画館だった。タイトルは「アナザーウェイ」、洋画らしいがどこの国の映画かもわからない。タイトルバックは鉄条網、流れてくる人名は、ローマ字と同じアルファベットなのだが、スラブ風の名前が多いようだ。そして、どうやらファミリーネーム(苗字?)が先で、ファーストネームが後になっているようだ。だとえば、ラージン・ステパンのように。 鉄条網の上をワシかなにか、鳥が飛び越えていくシーンでタイトルバックが終わる。 重苦しい映画だった。主人公の女性は同性愛者であることを隠して働いている。しかし、しだいに隠しきれなくなり、逃亡せざるをえなくなる。この国では、同性愛者であることは重罪であるらしいのだ。最後に逃げ場をなくした主人公は、国境を越えようとするのだが……。銃声が響くのだが、タイトルバックと同じ国境の鉄条網の映像(そう、この鉄条網は国境だった)、鳥の羽根がひらひらと舞っている。自由を求める主人公の心の象徴が鳥だとしたら、彼女は国境を越えることができたのか、それとも銃殺されてしまったのか? 場末の映画館なので、パンフレットもなく、監督もキャストも、国もわからなかったのだが、後に、日本と同じ順番で名前を表記する東ヨーロッパの国はハンガリーだとわかった。 「ベルリンの壁崩壊」のきっかけになった、西ドイツに行こうとした東ドイツの人々に、最初に鉄のカーテンを開いたのはハンガリーではなかったろうか?
この映画を思い出したのは、アカデミー賞の授賞式のニュースを見たのがきっかけだった。ぼくの思い出に残る映画は、たとえばスペインの「穢れなき悪戯」、あるいはイラン、あるいは中国の映画だ。フランコ政権下のスペイン、ホメイニ「革命」後のイラン、一党独裁下の中国、あるいはソ連時代のロシア、あるいはトルコ……。厳しい国家体制のもとでは、すぐれた映画が作られるように思う。時々わかりにくいのだが、それは、体制の検閲を逃れるための象徴化や比喩が盛り込まれるからだろう。冒頭のハンガリー映画だって、同性愛ということは、少数者であることの比喩だと思う。少数であることは罪なのか、自由が奪われるべき存在なのか?と。
そして思ったのだ。これからは、アメリカでもきっと辛辣でおもしろい映画が誕生するのではないだろうか、と。
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