スマホは人間性を根本的に変えてしまうかもしれない
この夏、朝の散歩の時に、時々奇妙な光景を見かける。万里の松原と呼ばれている森の中に、屋外炊事場や「森の家」という素敵なログハウスがあるのだが、そのあたりに20~30代と思われる人が集まるのだ。帰省してきた人たちが同期で集まって「芋煮会」というのが、この地方ではありがちなパターンなのだが、どうも様子が違う。スマホを構えて、ほとんど会話もなく立っているだけなのだ。第一、早朝6時台である。 ぼくたちが一周りしてそこに戻ってくるころ、彼らが車で出て行くのが見えた。これから仕事なのだろう。 もしかするとあれは「ポケモン狩り」だったのかもしれないと思い至った。去年は、夜のシャッター商店街に、ポケモン狩りの人々が無言でうごめいていたっけ。 「ポケモンGO!」は、ひきこもりの若者を野外に連れ出す効果があるなどとのたまう「有識者」がいたけれど、これがそうなのだろうか?少しも健全には見えなかったが。
8月7日の「天声人語」は「歩きスマホ」をとりあげていた。英語の「スマートフォン・ゾンビ」は言い得て妙、日本でもスマホゾンビ、ゾンビスマホなどとと呼んではどうだろうか。 しかし「テレビも漫画も、思考力を奪うと批判された歴史がある。スマホも心配しすぎだったということになるのかどうか。答えが出るのは、幼時から小さな画面に触れる世代が大人になるときだろうか。」という結びは、あまりに楽天的すぎないだろうか。 教員時代、言葉を話さず、感情を一切表わさない子どもに出会ったことがある。専門用語で「場面緘黙=かんもく」と呼ばれる症状のその子はやがて不登校になり、担任として何度も家庭訪問をしたものだ。母親は、その子が生まれるとすぐに当時の先進的教育法を取り入れ、自立心を育てようとして一切援助も語りかけもせず、テレビのついた部屋に一人で置いておいたのだそうだ。すると2歳ごろ視線が合わなくなった。びっくりして深く後悔した母親は仕事をやめ、子どもと密着するようにしたが、すでにコミュニケーションができなくなってしまったのだという。「心配しすぎ」どころか、心配はすでに現実になっている。この親子はまもなく、ここには書けないほどの残酷な結末を迎えてしまった。 テレビが悪いというより、子どもの発達に必要な時期に、古代スパルタのように親子が切り離されてしまったことが、最大の問題なのだと思う。 中学生に見せる「性教育ビデオ」の一つに、こんな場面があった。チンパンジーの新生児は、母親に抱かれてじっと母を見つめるのだ。母親も見つめかえす。この繰り返しが母子のコミュニケーションを育み、子どもは心の安定を得るのだそうだ。 人間の場合、見つめる乳児は無意識に声を出す。すると母親はそれに答えるように声を出す。言葉によるコミュニケーションの芽生えなのだという。言葉と心は同時に発達するものなのだ。(性教育を、一部の保守系政治家難癖をつけて批判するが、内容を全く知らないのだろう。『性教育』ということばを、自分というものさしで判断するから、いやらしいものだと思い込むのに違いない。)
先日、「スマホを手放さないと批判されるが、ニュースのチェックや読書、検索など、私たちはスマホで様々なことをやっているのだから、放っておいてほしい」というような投書があった。スマホがあればなんでもできるというそのことが、我々の最大の心配事というのに。バーチャルな世界で自己完結してしまうような場所は「魔窟」というのではなかったか?そこには他人とかかわる煩わしさも、気苦労も、もちろんいじめも存在しない。そんな幸せな世界にいられるのに、なんでわざわざリアルな世界で惨めな思いをしなくてはならないのか?などと本気で考える人が、確実に増えているのだと思う。 近所の高校で、放課後や休日、部活の元気な声が聞こえてくる。その一方で、帰宅する子が、駐車場の一角で所在なくスマホとにらめっこしている姿がある。声をかけあい、会話をする姿は、通話も含めて皆無である。(目の前にいる友人とも、メールやラインで会話するというジョークは、もはやジョークではないのかもしれない。) スマホベビーが大人になるまで待っていられるようなのんきなことを言っていられる場合ではないと想うのだが。
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