蹄油、辣油、尊馬油
爪を保護するクリームというのを買ってきて使用している。最近は割れにくくなったが、爪が割れたり傷ついたりすると、ギターを弾くのにさしつかえるので、試してみることにしのだ。 ギターを弾き始めたころから、右手の爪を少し伸ばしている。左利きなので生活する上であまり支障はないのだが、それでもなにかの弾みにぶつかったりひっかかったりして傷つけてしまうことがよくあった。 ところで、ポール・マッカートニーのように、左利きの人がギターを逆向きに持つというのはどうしてだろう。逆向きギターといっても、ポールなどは弦も逆向きに張っているらしいし、松崎しげるは、ふつうに張られた弦のまま左持ちで弾いているのだそうだが。 ぼくは右用のままで少しも困らない。実際にはフレットを押さえる左手のほうが過酷な役割をし、右手は単純な動きしかしない。(トレモロはそうでもないか。)上達しないのは、左利きのせいではなく、単純に不器用なためだと思う。 それはともかく、実際には何十年もの間、ギターなど弾くことはなかったのだが、爪の手入れをするときは左右の長さを違えて切るのが習慣になっていたのだ。 だから最近始めたバンドで、内部事情からリードギターが抜けて、ぼくもギターを持つことになった時にはすぐに対応できた。ピックを使うのがあまり得意ではないのだ。 爪クリームの説明書には、爪の付け根に少しつけてから爪全体に伸ばすようにと書いてある。 それで蹄油を思い出したのだ。「ていゆ」と読み、馬の蹄を保護するために塗る油のことだ。馬は手入れの最後に足を洗い、蹄の底にある蹄叉の溝につまっている泥や小石などをテッピを使って取り除く。これをサボると蹄叉腐乱になり、悪化すると歩けなくなるのだ。そして最後に蹄油を刷毛で塗る。蹄の底にも、低差の溝にもまんべんなく塗りこむのだ。蹄油には殺菌成分が配合されているそうで、その分、高価なのだそうだ。 その蹄油がなくなりかけたことがあった。すると師匠が「いざとなればごま油で代用すればいい。」とつぶやいた。唐辛子を入れておけば殺菌効果もあると。 酒田にあった乗馬クラブでも、蹄油がなくなりかけた時、オーナーに「ごま油で代用できるそうですよ。唐辛子を入れて」と助言した。 翌週、馬場に行って自分が乗った馬を手入れし、蹄油を塗ろうとして気がついた。 「この蹄油、赤いですね。」と言ったら、「ごま油に唐辛子入れた。これだば、辣油だの。」と返された。なるほど、唐辛子を入れたごま油は辣油だ。昔、師匠はぼくをからかったのだろうか?
油、馬の連想で、宮沢賢治の童話『北守将軍と三人兄弟の醫者』を思い出した。 中国と思われる国の北の国境を守っていた将軍が凱旋し、馬に乗ったまま、町の医者に乗り込んでいく。実は昼夜乗馬して国境を守っていたために、そのまま体がかたまってしまい、降りることもできなくなっていたのだ。将軍は3人の兄弟の医者をまわって、まず長男の医者に馬と体を離して元気にしてもらい、次に獣医の次男に馬と鞍を離して馬を元気にしてもらい、最後に樹木医の三男の医者に体ににこびりついたコケやらカビやらのようなものを取り除いてもらうというたわいない話なのだが、その将軍の名がソンバーユー。 ぼくたちの世代ではピンとこないのだが、戦前はソンバーユーつまり尊馬油といえば、仁丹やメンソレータム、正露丸なみに身近なものだったらしい。馬油、つまり馬の脂肪から作られる油は、保湿ややけど、しもやけなど皮膚の万能薬として家庭に常備されているものだったらしい。革靴など皮革製品が冬に凍結してひび割れるのを防ぐ効果もあるそうだ。そのソンバーユーを物語の主人公の名前にしてしまうあたりに、宮沢賢治のユーモアがあると思う。
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