おもしろい写真を2枚。
どちらも、巣の入り口にいるリスです。心配しながら私たちを見ているのでしょう。事情を知らなければ、1枚目などかわいい顔に癒されますが。(因みに2枚は別のリスです。)今さらのようにしげしげと巣穴に巣材を運び込むので、すでに子どもがいるのではないかと思うのです。そっと見守らなければ。
ところで、今日の本題は「言葉遣い」です。昔、こんなやり取りをしたものです
「文章中に『床』という言葉が出てきたら、それが『とこ』なのか『ゆか』なのかは、文脈で判断するんだよ。」と言うと、生徒は不満そうな顔をします。
「基準ってないんですか?どうやって『ゆか』か『とこ』か判断するんですか?」と。
「そりゃ人生経験を積むしかないね。」
ラジオなどでいい大人が「絵をえがく」だの、「グラスにワインをそそぐ」だのと言うのが気になるのは、きっと年を取ったせいなのでしょう。
「描く」は「えがく」とも「かく」とも読めます。「ブルーエンジェルスが大空に五色の円を描く」なら「えがく」でしょうが、「先生が黒板に円を描く」のように、始めからそれが絵や図なら、「かく」でいいのではないでしょうか?しかし、近ごろの大人たちは「描く」には「えがく」という読みしかないと思っているようです。
「注ぐ」だって、ふつうは「そそぐ」と読むけれど、器に液体を満たす場合は「つぐ」でなければ。器に酒をそそがれたら、酒があふれてしまうじゃないか! そそぐのはせいぜいビールぐらいにしておいてほしい。
「酒ををそそぐ」と言われたら、お釈迦様じゃあるまいし、頭から酒を浴びせられたようないやな感じがしませんか?
それにしても、私はなぜこんなに些細と言ってもいい言葉遣いにこだわるのだろう?たぶんそれは共通語というか東京弁が私のマザータン(母語)だからなのだと思います。在日東北人を自称してはいても、ゼロ歳から東京で育って東京弁を駆使し、中学時代は古典落語にはまりました。山の手言葉を駆使して丁寧な言葉遣いを心がけながら、心の中では江戸弁で悪態をつくなどお手の物です。しかし多摩川を越えた横浜で頼りない教員として働いた38年間、定年後は都の東北出羽の国庄内地方で、外国語のような言葉に囲まれているうちに、ラジオやテレビから聞こえてくる「標準語」がなにやら妙なことになっていることに、とても不安になってしまったのです。(横浜を離れてようやく横浜弁の影響が抜けたと思っていたら、東京の人がみな横浜弁をしゃべっているのにはびっくりしたなあ。)
私たちの世代は、「標準語というのは、NHKのアナウンサーのような話し方のことだ」と言われたものです。そのアナウンサーが今や全くあてにならない。勉強してねえなあとか、言葉は生き物で、時代と共に変わりますなんて、標準語の規範でなきゃならないあなたがそれを言っちゃあおしまいよ、なんて突っ込んではみるんですがね。