高校駅伝の報道、なぜ男子を先に?
私たちの学級名簿はどうなっていただろうか? 男女混合生まれた日順という名簿を見た記憶があるのだが、確信はない。まあ普通は男女別50音順だろう。 学校が職場になっても、やはり男女別50音名簿は当たり前に使われていた。保健体育や技術家庭科など、男女別の授業もあったから、特に違和感もなかったのだと思う。 しかし、男子は技術科、女子は家庭科という決めつけはおかしくないかという疑問が生まれる。家庭の姿は様々なのに、外で働くのが男、女は家庭を守るというイメージを押しつけるのかと。そして「家庭科の男女共修を」という運動が起こる。家庭科とは調理などの実習もあるが、家庭のあり方まで根源的に学習する教科であるはずだということで、男女共修が実現する。 次に問題になったのが男女別名簿だった。男女を分ける必然性は何か、と問うと、これといった理由が見当たらないのだ。理科のテスト結果を男女別に分析しても、なにが分かるのだろうか。男女のどちらかが平均点が高かったとしたら何が原因か、では学力を均等にするにはどんな対策が必要か? などと理屈はいくらでもつけられるが、実際にそんな分析や対策は行われてはこなかったし、必要だとも思えない。いや、意味のない男女別統計は悪しき先入観を生みかねない。 というような侃々諤々の議論があって、混合名簿(男女を分けず、機械的に50音順に並べる名簿)が導入されるようになった。保健体育科からは異論も出たが、エクセルで作る名簿なので混合と男女別のナンバーをふっておけば、男女別にも混合にもできるではないかということになった。(保健体育では、保険の授業はもともと混合で行っていたし、実技も希望選択制にすれば問題はない。つまり『次からは柔道とダンスをやるよ。』と示しておけば、男女関係なくやりたい種目を各自で選べるということだ。) ということで、全国的ではないのかもしれないが、男女混合50音名簿は広く浸透しているはずなのだ。) 特に意味なく男女に分けるという学校、社会の慣習は、いわゆる政敵マイノリティの人にもとっても障壁になっているに違いない。そういう意味では、男女別が当たり前のスポーツも、考えてみる必要はあるのだろう。(馬術やアーチェリーなど、男女にこだわらないスポーツもあるわけだが。)
さて、12月25日、京都で全国高校駅伝大会があった。午前は女子、午後は男子だったのは周知の通り。 ところが、ラジオでもテレビでも中継したNHKは、その夜と翌日のニュースでこれを報道するのに、なぜか男子の結果を先に伝えたのである。なぜだろう? たまたまかとも思ったが、繰り返しこの順番で伝えるのだから、なにか意図があるに違いない。 そういえば、過去のできごとを伝える時にも西暦何年と言えば、それは今から何年前のことかなどすんなりわかるのに、わざわざ昭和とか平成などを使い、西暦の併用さえしないことがしばしば。これもまたなにか意図的なものを感じるのだ。元号法が国会を通ったとき、「元号と西暦を併用することが望ましい」というような付帯的な合意があったと思っていたのだが、やはり法制化されると勝手に一人歩きするものだ。 そういえば、国旗国歌法でも、国旗は「日の丸」、国家は「君が代」と定めただけで、強制してはならないとはっきり決めたはずだった。しかし卒業式などで職員が起立しない、歌わないなどの理由で処分を受けている。 そんな違和感が積み重なった延長に、今の息苦しいこの国の姿があるのではないだろうか?
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