いそうろうのころ
就職2年目の冬、戸塚区(横浜市)にあったちょっと怪しげな乗馬クラブに入会しました。どこかの厩舎が倒産し、抵当の馬や馬具を引き取った不動産会社が始めたというクラブです。 当時はそんな事情は知らず、子どものころからの夢だった乗馬を始めたのです。しかし、一向に上達せずに悶々としているうち、このクラブの姉妹馬場が三浦にあると聞き、夏休みに訪ねてみたのです。そこで出会ったのがY夫妻。当時、三浦の馬場の実質的なインスタラクターでした。実際はアルバイトの厩務員という立場でしたが、他に馬の専門家がいないことから、何もしないというかできない場長に代わって、経理以外のすべての仕事を担当していました。ぼくは夏休みいっぱい、そのYさんのもとに居候したのです。(その後も、休日だけの居候生活は約2年続きました。) Yさんは、それまでは外国航路の船員でしたが、それ以前は地方競馬のジョッキーだったそうです。しかし、レースで乗った馬が転倒して足を折り、殺処分になったショックでジョッキーをやめたのだそうです。 確かに出会ったころのYさんは、いわゆるモンキー乗りが得意でした。馬が反抗したり乗り手を落としたりすると、Yさんが騎乗して懲戒するのですが、最後は思いきり走らせて馬のストレスを解放させます。そのときは鐙を極端に短くして尻を上げ、前傾の姿勢になるのです。 しかし三浦は観光地なので、ビジターとして試乗した人が入会するケースが多く、Yさんは馬術を教える責任を感じたようです。 「技術は盗め」と言われます。しかし、馬術はながめていてもさっぱりわからない。馬が自分の意志で動いているように見えるけれども、実際は乗り手が何をしているのか、名人ほど外からはわからないのです。 幸い、Yさんは普通の人よりは上手に乗れるわけで、足りないのはそれを裏づける体系的な理論です。彼の頭の中は常にそのことでいっぱいです。それを口に出す。相談しているわけではないのですが、相手になっているこちらには良いヒントになるのです。難しい馬術用語ばかりでなく、内方姿勢とは何か、なぜ必要か、どうすれば馬がその姿勢をとるかなど。 わずか半年で、Yさんの馬術はみるみる上達していき、1年後には障害飛越にも挑戦していました。 一日が終わって、手入れをした馬を武山の中腹の厩舎に連れて行きます。「浜ちゃん、乗っていいよ。」という許しが出ると、鞍を置かない裸馬にまたがって坂道をポッコポッコ登っていきます。ハンチングを後ろ向きにかぶって煙草をくわえたYさんの姿が、夕日を浴びてシルエットになっています。どこからかアオバズクの声が「ポッポ、ポッポ」と聞こえてきます。 Yさんがイライラしている時、「ハマちゃん行くぞ」と突然馬の腹に蹴りを入れ、全速で坂を駆け上がることも。こんなことは本来タブーなのですが、よほどのことがあったのでしょう。厩舎の先には行き止まりのフェンスがあり、Yさんはそこでピタリと停止させます。初心者のぼくは止められずフェンスを飛び越えてしまいます。おもわず馬の首にしがみつき、辛うじて落ちずにすみました。 Yさんはその後、正式に社員になり場長に任命されました。しかし、親会社の経営がうまくいかないせいで、やがて三浦馬場は閉鎖になり横浜馬場に合併移転するも、そこも閉鎖に。埼玉県の馬場に移転することになって、さすがにぼくはついていくことをあきらめました。公務員をやめる自信がなかったためです。 ところで、Yさんはウィンナソーセージなどを決して食べませんでした。馬肉が入っているかもしれないという理由です。 競馬で殺処分になった馬、あるいは成績が悪く淘汰される馬は、解体されてペットフードなどに加工されると聞いたことがあります。当時は、ミンチ、ソーセージなどのかさ増しにされるといううわさもありました。 Yさんがジョッキーをやめたのは、先述したように騎乗した馬が殺処分になったショックからです。先日のダービーでも、ゴールに入った後、ルメール騎手が騎乗した馬が倒れ、心臓麻痺で死にました。その心臓はレース中にすでに停止していたけれど、騎手が下馬するまで倒れなかったのだという話さえ飛び交っているようです。 馬は犬と同じ伴侶動物です。犬以上に人に物理的に貢献し、歴史を歩んできました。感情尾あり、犬とは異なるコミュニケーソン力があります。 犬を食べる文化は現存しますが、それをいやがる人ははるかに多いことは容易に想像できます。同様に、馬に特別な感情を持つ人は少なくないと思います。世界レベルになればもっともっと。 それなのに、この国で馬肉食が大っぴらに喧伝されることには、苦々しい思いがあります。いや、提供されれば食べるでしょう断る勇気がないからです。それでもYさんほど徹底できないのですが、抵抗を感じる一人ではあります。
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