森の中をヒラヒラ飛んでいたモンキチョウがやっととまってくれました。朝日が透けています。
山椒の木にまたメジロが集まってきていました。
ところで、トリチウム問題をこんな風に考えてみました。日本以外のある国が、安全なレベルまで薄めてあるからだいじょうぶと言って、放射性物質を含んだ排水を海に捨てると言い出したら、私たちは「いいよいいよ、海は広くて大きいのだから、ほとんど影響はないだろうし。気にしないでやってくださいよ。」と笑って言うでしょうか。
いやいや、ほとんどの人は怒るはずです。少なくともぼくはとても怒ると思います。特にそれがすぐ近くの国ならば。
ところがその国は「専門家が科学的にも安全だと言っているのになぜ怒るのか。そんな理不尽な態度をとるなら、経済制裁も辞さないぞ。」とこちらを責めるのです。
つまりこういうことではないでしょうか。もしトリチウムを含む排水を海に捨てることが、やむを得ないことならば、迷惑をかける相手に対しては礼儀をもってお願いしなければなりません。それでもだめだと言われても悪いのはこちらなのだから、逆ギレなどしないで腰を低くしてお願いし続けるべきなのです。産業技術として成立しない原子力発電に踏み切り、その結果大事故を起こし、廃炉も見通しがつかない果ての処置なのですから。
トリチウムを含む排水を、あらかじめ海水で薄めてから海に流しても、薄めないでそのまま流しても濃度は同じになるはずだと、ぼくには思えます。海の広さは無限大、海水の量は無限大という根拠のない前提があるからそう言えるのでしょうが、子供だましで誠意がない相手に見えてしまいます。
話は変わりますが、トイレのことを昔はかわや(厠)とも言いましたが、それは古代のトイレが高床式で川の上に建てられていて、川にそのまま垂れ流していたからだそうです。
政治家がよく言う、禊(みそぎ)は、神域に入る前に川や滝で体を清めることですね。
マタギと呼ばれた猟師も、山に入る前にはまず川で禊をしたと言います。穢れは水に流すものなのですね。
ところがアイヌ民族は違います。川のほとりに家を建てて、生活水は川から汲むのですが、トイレにせよ洗濯にせよ、決して水に流してはならないのです。そもそも川もカムイ(神)なので、そんなことをしてはならないわけです。
「水に流す」というのは、日本というかヤマト族特有の文化なのではないかと思います。恨みも怒りも、過去の罪も、垢や汚れを川に、または海に流すように「水に流す」。そのココロは、日本にしか通じないものなのだと自覚すべきです。「どうしてあの国の人は、あの民族は過去に日本が行った罪を水に流してくれずに、いつまでもこだわり続けるのだろう?」などと言ってはいけません。そもそも加害者が言うべきではないからですが、忘れずにこだわり続けることが世界標準なのだと知るべきではないでしょうか。