本当にひさしぶりにリスの「じいさん」に再会しました。ヒゲが全部白いこと、左耳がさくら耳、いやギザギザ耳であること。
いつもの白ヒゲ1本のリスは出てきません。どちらも雄ですから、もしかすると、順位が上の「じいさん」に対して、遠慮しているのかもしれません。そしてもしかすると、この2匹は親子なのではないかとも思います。「じいさん」は数年間、このあたりに君臨する雄ですから、白ヒゲ1本はその息子かも。だから白ヒゲ1本は遺伝?
「ニイニイニイ」とだれかが呼びます。ヤマガラです。すぐ近くで、目の高さの木の枝から地上に降りたりまた枝にもどったり。地上ではリスが落とした空のクルミの殻を覗いています。こちらを向いて訴えているのは「なにもないよ。なんかちょうだい!」と言っているのか? そんな生意気を言うと、籠に入れて神社でおみくじを引かせるぞ。
ところで、職業柄、年賀状をたくさんいただいたものです。今はそうでもなくなりましたが。ほっとしていると同時に少し寂しくもあります。もう顔も思い出せないほど昔の教え子で、律儀に毎年送ってくれる人がいます。一方、最後の職場やそれに近い年齢の卒業生からは1枚も来ません。
「よほど嫌われたな?」などとからかわれますが、原因ははっきりしています。「個人情報保護」の名のもとに、学級名簿が廃止されたことです。
学校から名簿が消えたことは、子どもたちがケータイを持ち、メールやラインで連絡し合うようになったことと併せて、年賀状を衰退させる決定打となりました。
ぼくたちが育った時代以上に和洋の年中行事にこだわり、商業主義に踊らされて莫大なお金をかけるのに、「年賀状は日本の伝統文化」と言う人がいないのは不思議ですね。きっと年賀状作りが楽しくなかったのでしょう?
ところで個人情報保護は、学校の「家庭訪問」をも衰退させました。
家庭訪問は、教員にとって大仕事です。なくなれば嬉しい!
初めて担任を持った年、4日しかない日程で、起伏の多い都市郊外に広がる学区に散らばる40人以上の生徒の家を徒歩で回るのは、本当に苦痛でした。要領のいい先輩は、車やバイクでさっさと回るのですが、律儀に徒歩でまわったので、時間がかかり、夜の8時を過ぎにたどり着いて叱られたこともあります。
ゴールデンウィークのころなので必ず嵐(メイストーム)の日があり、ずぶ濡れになったり、靴が壊れたり。
父親が運輸省の職員というある生徒の家では、日程を変えて日曜日にしてほしいと言います。希望通りの日に訪問すると、父親が出てきて豪華料理の接待です。子どもを預かっている以上、断って口論になるのはまずいと自己弁護するしかありませんでしたが、敗北感でいっぱいでした。法律的には贈収賄になるのでは?
そんな問題含みの家庭訪問が廃止されるのは、働き方改革の面でも良いことなのでしょう。それでも、子どもがどんな状況に置かれているのかを知ることは、教員にとって大切なことです。ここで言う「個人情報保護」は、家庭の姿が「個人情報」であり、教員という他人に知られないための保護という意味でしょうか。子どもを育てるためには共有しておきたい情報だと思うのですが、悲しいほど信用されていないのですね。
そうそう、家庭訪問では、家庭の宗教もわかります。新興宗教やいわゆるカルト的な宗教も。信教の自由を否定したり介入したりすることはできませんが、子どもの心を知るには役に立ちます。
ぼくの母も熱心な宗教の信者でした。夕方から朝までの仕事と、宗教活動のためぼくが10代のころには、ほとんど家にはいませんでした。
いわゆる「宗教2世」が、他の仕事に追われる親を持つことの決定的な違いは、親に悩みを相談できないということでしょうか。
悩みを打ち明けても「それはあなたの信仰が足りないから」ということになります。
「A校を受験したいんだけど、難しそうだ。B校にしてもいいかな?」
「だいじょうぶ!毎日しっかり題目を唱えれば、必ず受かるから。」
ということでほとんど相談にならないのです。ぼくは心の中で親を捨てることにしました。老後の親がどんなに心を軟化させ、歩み寄ってきても、この断絶感から逃れることはできません。
それはともかく、一見普通の平和で幸せな家庭であっても、見えない影を抱えているかもしれない。
家庭訪問を廃止してだいじょうぶなのかなあ?