「差別語」を使わなければ差別はなくなるか?
3月に入ってから気温が低く、毎日雪やみぞれが降ります。花を見に行くのはお預け。 森でも伐採作業が大規模になり、なかなかリスに会えなくなっています。たまに見かけても、用心深くサッと姿を消します。 今日は、最近気になっていることをテーマに書きました。
左利きのぼくは、子どものころ「ギッチョ?」と聞かれたものだが、それを差別と感じたことはない。相手も、ギッチョとはその人の特徴の一つくらいにしか思っていなかっただろう。ギッチョって、なかなかかわいい響きだと思う。 小学校の担任からはギッチョと言われたことはないが、習字の時間に左手で墨を磨ると、黙って硯を右側に移した。家庭科の専科は、ぼくが左手で運針する様子を黙って見ていたが、成績を1にした。当時の教師は、左利きは矯正すべき「障害」と考えていたのだ。しかし、まるで左利きが悪いことであるかのような扱いにはとても傷ついた。 今、ギッチョという言葉は絶滅し、もはや通じないのかもしれない。ポリティカル・コレクト?しかし、言葉はなくなっても、片刃の包丁、鎌、コーヒーポットの取っ手など、左利きにとって不利な世界は昔のままだ。いや、社会の進歩に取り残されるような気がすることも多く、券売機、改札機、ATM、自販機の前で「これは差別だ!」と心の中で叫ぶのだ。 朝ドラで、福来スズコ(笠置シズコ)のブギが人気だ。ぼくたちの世代は、「買い物ブギ」をラジオで聞いた最後の世代かもしれない。取りすました歌ではなく、落語か漫才のようなやり取りの歌詞は、子どもだったぼくにもおもしろさがよくわかった。 「おっさん、おっさん、これなんぼ? おっさん、おっさん、おっさん、おっさん」しかしはおっさんの返事は「わたしゃ聞こえません」だった。あれ?それじゃ意味が伝わらないし、オチにならない。「わたしゃツンボで聞こえません」だからオチになるのに。 ツンボは差別語だから放送禁止、言わないようにという配慮なのだろう。しかしポリティカル・コレクトは、差別にならないように配慮するという意味であって、たとえばギッチョと言わなければよい、ということではないはずだ。 おもしろいのは、テレビの映画劇場などで、原語ではindianと言っているのに字幕には「先住民」と出たりする。それではIndianというつぶやきが表現する憎しみや差別感情が消されてしまい、テーマの重さが伝わらないこともある。思い浮かぶのは「事なかれ主義」という言葉。 ところで、今朝、NHKラジオにコーラスグループ「ベイビーブー」が出演して、「買い物ブギ」を素晴らしい編曲で披露した。最後のオチはどうするかと思ったら、「耳が遠くて聞こえません」と歌った。素晴らしい!放送コードにも触れず、オチにもなっている。これくらいの知恵は働かせてほしいものだ。
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