10中校歌について
去年、所属する山形県鶴岡市の男声合唱団が、秋田市の合唱団の定演を手伝うことになった。できるだけ大人数で歌いたいということだった。先方では毎回、秋田県民の歌を歌ってお開きとするのだそうで、その練習もすることになった。稽古ををつけに来た先方の指揮者が「すまねことだずな。この歌の3番の歌詞には問題があって、秋田県内でも歌いたぐねえという人がいるのに、これ歌ってもらっていいものかどうか、まんず悩む所です。」と言う。それはこんな部分だ。
錦旗を護りし 戊辰の栄は 矢留の城頭 花とぞ薫る 歴史はかぐわし 誉の秋田
聞けば、秋田県内でも旧南部藩に属していた地域があって、ここが問題になるのだという。鶴岡を中心とした庄内藩や盛岡を中心とした南部藩は、会津藩と共に奥州列藩同盟として官軍と戦火を交えたのだが、秋田藩は官軍側についている。明治維新に遡ると、県境を越えた友好に水を差すのではと心配したわけだ。
しかし、鶴岡側は意に介さぬかわりに、山形県民の歌を歌うことで答礼することにした。「県民なら知っていて当然なんだけど」と配られた楽譜を見ると、歌詞は昭和天皇御製とある。こんな歌だ。
広き野を流れゆけども最上川 海に入るまで濁らざりけり
昭和天皇が摂政宮だったころというから大正時代に、山形県を訪問した折に詠んだのだそうだ。見たまんまだという感想も、いや人の生き方の理想を詠んだのだという感想もあるだろうが、山形県民はかなり誇りに感じているようだ。しかし、朝敵と名指された庄内人の子孫として御製を戴くことを手放しで喜んでいていいのかと心配になるのは、こちらの杞憂にすぎないのだろうか。
いずれにしても、このステージは欠席したので、葛藤しなくてすんだのは幸いだった。 昔から、校歌、社歌、応援歌、市歌、国歌などは歌わないことにしている。けしからんという人もあろうが、嫌なものはしかたがない。歌うことは大好きなのだが、これらの歌は概ね歌いにくく、歌いたいという気持ちも起きないものが多い。 横浜の中学校の教員として、赴任先での朝会や式の際、悩んだことも多い。卒業の歌の合唱の指導には熱心なのに、なぜ校歌や市歌は歌わないの?と真顔で聞かれることもあった。「どうしても歌いたくない時は、歌わなくてもいいんだよ」と答えるしかないのだが。
ある学校で、新入生が校歌を指導されて怪訝な顔をした。「この歌、ゴミ収集車が流す歌とそっくり」という。言われてみればそのとおり。メロディーは違うが、重ねて歌っても違和感がない。授業中に回ってくる収集車のメロディーを伴奏に、校歌を鼻歌で歌い出す始末。音楽の教師に聞くと、「最初からわかってます。作曲家が同じなんですもの。」という返事。ことによると、市が窓口になって2曲の作曲を同時に依頼し、先方も手抜きをしたのではないかとウワサになっている。
昔、川の土手などにあった立て札「ちょっと待て、よいかわるいか考えて」とか「この土手に小便するな警視庁」は、五七五の形式ではあっても俳句や川柳とはいわない。なぜならこれは表現芸術ではなく、宣伝用の広告だからだ。 ぼくが県民歌、市歌、校歌、応援歌を歌うことに抵抗を感じるのは、たぶんこれらが一般的な表現芸術としての歌ではなく、広告のように歌を道具扱いしていると感じるからなのだと思う。
とまあ長々と書き連ねてきたわけだが、実はここまでは前置きにすぎない。言いたいことは、校歌のたぐいは歌わないというぼくにも唯一の例外があるということなのだ。
それが東京都中野区立第10中学校の校歌だ。実に変わった校歌という他ない。ここには、武蔵野も富士山も神田川も歌われていないかわりに、戦後の新制中学校が誕生した当時の、生まれ変わった日本の理想を子どもたちに託す願いが歌われている。生徒だった私たちが主人公であり、一人前の人間として信頼され、尊重されている。
背には時代を負い 手には友を抱き 大きな輪を作る みんな一つになって……
母校が廃校になっても永遠に残って欲しい歌であり、新制中学校の殿堂に入るべき価値ある校歌ではなかろうか。
|