イルミネーション
週1回の合唱練習は金曜日の夜で、終わるのは9時30分。帰り道はわざわざ信号を待たずとも大通りをそのまま渡る。車がほとんど通らないからだ。家々の灯りは暗く、しんとしている。雲間から星がのぞく。月の夜は月光が瓦に反射する。まるで深夜のようだ。そういえば途中にある3軒の居酒屋やスナックは、去年まではカラオケの声が響いていたのに、今年は閉店してしまったのかと思うほどしんとしている。週末だというのに。遠くでにぎやかに騒ぐ声がすると思ったら、あれは最上川の河川敷に集まっている白鳥だ。地方都市に顕著な高齢化と少子化、不況の影響が、物事に鈍感なぼくの目にさえ見えてくる。 しかし、このうらぶれた寂しさは嫌いではない。暗いと思った家でも一箇所光が灯っていて、そこに人は集まっているのだろう。それともお一人さま?
ところがこの帰宅ルートに、冬になるとイルミネーションを飾る家が1軒ある。それも駅前通りの交差点にある家で、二面の壁いっぱいきらびやかに輝いている。しかし雨や雪の夜は路面が見えにくくなるし、信号も色とりどりのLEDに紛れてわかりにくい。以前は新聞の地方版で紹介されていのだが、最近はそれもなくなった。近所の評判が良くないのではなかろうか。 そういえば、この不況をなんとかしたいと思うからなのか、ライトアップやイルミネーションが今や大流行のようだ。大都市も地方都市も、観光地も個人も。「猫も杓子も」というのがこの国の国民性だとはわかっているけれど、オリジナリティがなさすぎだとため息が出る。 先日、その一つ「仙台光のページェント」を実施するための街頭募金を盗んだ男が逮捕されたというニュースがあった。男は生活が苦しくて盗んだと供述したという。一大イベントのために募金された金を、暮らしに困った人が盗む……なんとも切なくなる話だ。 イルミネーションのニュースでよく「LEDを使用しているから消費電力が低く抑えられている」などと説明される。ぼくの頭の中は「????」。「塵も積もれば山となる」という諺を知らないのか?全国津々浦々、猫も杓子も電飾してたらその消費電力は? LEDだから大丈夫って想像力なさすぎじゃね、おっと失礼、なさすぎではないか。 4年前の3・11で「この災害を経験した日本はこれまでとは変わるでしょう。いや変わらざるを得ないでしょう。」と多くの識者が語ったけれど、結局喉元過ぎてあのショックを忘れてしまったのかもしれませんね。忘年会、年忘れ……「言霊の幸わう」この国では、いやな記憶は積極的に忘れることが奨励されてきたし、近ごろでは記憶を書き換えて上書きすることさえやってのける。(ほら、大東亜戦争はアジアを解放するためだったとか、南京虐殺はでっち上げだとか、従軍慰安婦はどこの国にもいたとか。) ぼくが住む地域では地震の影響はほとんどなかったのだけれど、24時間近くの停電で受けた精神的ダメージは大きかった。電気が復旧して、初めて見たテレビの映像はそれに追い打ちをかけた。 内陸にまで迫る黒い水のかたまり、飲み込まれる街。原発の事故は始め小さく報道されたが、その深刻さが次第に明らかになっていく。福島の浜通りでは避難所に物資を届けることができなかった。トラックが拒否したのだ。でもそれは非難できない。運転手にとっては死ねと言われたも同然と感じたのだろう。 ぼくたちがなんの疑いもなく享受してきた豊かさや便利さは、ひとたび事故を起こせば周辺を人の住めない世界に変え、事故がなくても使用済み「燃料」や廃棄物を無害化する方法も場所もないまま、無責任にもそのリスクを未来に委ねてしまう原子力発電に頼ることによって成り立っている、そのことを否応なく知らされたのがあの3・11ではなかったのだろうか。 その原発がわずか4年を経てなし崩し的に再稼働されていく。頼みの再生可能エネルギーも思ったようには進まない。というより、そうさせたくない意志が働いているのが見え見えな政策。風力発電もここに至って、自然破壊を理由に抗議を受けて足踏みしている。
というわけで、イルミネーションを素直に楽しむ気にはなれないぼくなのである。
|