昨日の朝日新聞文化文芸欄に載った「戦後生まれの戦争責任は」に考えさせられることが多く有り、ここに紹介します。
キーワードはImplication(含蓄、包含、連座、密接な関係、かかわり合い)ここでは「連累(事後の共犯)」としています。
戦後生まれの戦争責任は 引用元: 朝日新聞 文化文芸 2015.12.25.
豪の歴史学者、テッサ・モーリス=スズキさんに聞く
戦後生まれの人々にも、戦争に関する責任や謝罪の義務はあるのだろうか。戦後70年の節目に、こんな問いが浮上している。戦争責任の考察で知られる歴史学者テッサ・モーリス=スズキさん(オーストラリア国立大学教授)に、来日を機に聞いた。
あの戦争に関わりのない世代の子たちに「謝罪を続ける宿命」を背負わせてはならない――。今年8月、戦後70年の談話で安倍晋三首相はそう訴えた。本社の世論調査では、その主張に「共感する」との回答が63%で、「共感しない」の21%を上回った。
モーリス=スズキさんは英国出身。1980年代にオーストラリアに移住した。直面したのは、英国が18世紀以降に同地を植民地化した歴史だ。先住民アボリジニーから土地を奪い、虐殺もあった。
自分には罪や責任があるかとモーリス=スズキさんは自問し、「罪はないがインプリケーションはある」との結論に達した。インプリケーションは新たな概念で、「連累」と邦訳した。「直接関与していないにもかかわらず『自分には関係ない』とは言えない。そんな過去との関係を示した概念です」と話す。
連累とは「事後の共犯」的な関係だという。たとえば、収奪行為には関与しなかったが、収奪されたものに由来する恩恵を「現在」得ているケースだ。「私自身も今、奪われた土地の中に住む一人です」。虐殺に関与しなくとも、その歴史を隠蔽(いんぺい)したり風化させたりする動きに関与すれば責任が生じうると見る。
「アボリジニーは差別や不平等に直面させられているが、そのことと収奪や虐殺の歴史にはつながりがある。過去の不正義を支えた『差別や排除の構造』が今も生き続けているということです。そこから生まれる『責任』にこそ目を向けていくべきでしょう。不正義を支えた構造は、私たちが積極的に是正に動き出さない限り、社会の中で再生産され続けるからです」
同じことは日本にもあてはまる、とも語った。
「戦時の慰安婦制度の背景には性差別や民族差別がありました。河野談話を否定しようとする人々の言動を見ると、差別が日本社会に生き続けていることが分かります」
では、慰安婦制度や南京での虐殺について、戦後生まれの日本国民も「謝罪」をすべきなのだろうか。
「歴史事件そのものに対して戦後生まれの個人が謝罪する必要は原則ないと思う。ただし国家は連続性のある存在であり、謝罪すべきです。また国民には、謝罪するよう政府に求める義務があります」
だがいま、日本が謝罪や償いを十分にしてきたと思う人は少なくない。今年春の世論調査では57%に上っていた。
「効果的な謝罪を政府がしてきたかどうか、は考えてみるべきでしょう。『何十回もたばこをやめた』と言う人は禁煙できている人なのか……。謝罪は、今の社会に残っている『過去の暴力の構造』との闘いでもあるのです」
戦争の「責任」について考えることが未来への建設的な作業につながるような道筋をどう作るか。「連累」は一つの示唆であると思えた。(編集委員・塩倉裕)
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国が犯した罪は、それが過去のことであっても、被害者・被害国に対してその国民は責任を逃れることはできない。
それなら、どうすればいいか。今からでも、その罪に導いた当時の指導者を国民が総括することです。我が国はそれをせず、逆にその責任者と多く重なるA級戦犯(戦勝国がつけた罪状)を靖国神社に合祀して、時の指導者たちが参拝しているのです。これでは、いくら謝罪しても相手から見れば形だけのものにしかなりません。安倍首相の言う「次世代の子たちに「謝罪を続ける宿命」を背負わせてはならない」のなら、まずはそうすべきです。
同じ敗戦国のドイツ、イタリヤは戦争責任の総括をして現在の国際関係を築いています。