恋愛小説「志乃さん」
僕が初めて精神科病院に入院したのは、四十二歳の時だった。酒を飲んで暴れたのだ。義弟の紹介で三鷹のE病院に行った。診察した医師は 「ストレスから来てますから、一ヵ月入院してください」 と言った。。アルコール精神病”と言われた。 入院が決まったが、これがもとで妻と別れた。子供はいなかった。 病棟は「開放混合病棟」だった。 楽園と言われていた。「開放」だから自由に散歩が出来た。「混合」なので、隣の病室には女性の患者が入っていたし、食事もホールで同じテーブルで食べた。周りの患者は、うつ病がほとんどだった。それでも友達もできて、また運動会などもあった。楽しく過ごして、やがて1ヵ月が過ぎて退院した。 住居は母が三鷹にアパートを借りて、そこで二人で暮らすことになった。 仕事に復帰して、何事もなかった。酒も飲んだし、車も運転した。 薬は飲んでいた。睡眠薬が入っていたからだ。寝つきの悪い僕は、夜、寝るのは1時半で、起きるのは七時半だった。 何事もなく時が過ぎて、やがて僕は六十歳になった。そして高尾に引っ越した。 高尾からE病院は遠かったので、裏高尾にあるK病院に転院した。 面談した先生は、僕の症状が軽いと見たらしく、薬をガラリと変えた。普通は、医療情報提供書があり、薬の種類が書いてあり、そう簡単には変えないものなのだ。薬を変えたり減薬する時は入院をするのだ。 一ヵ月余りすると、猛烈な禁断症状が起きた。妄想、徘徊、意識不明となり、救急車でK病院に運ばれた。 目が覚めると、ベッドに固定されていた。部屋は個室だった。あとで分かったことだが、別館東棟だった。 担当看護のOさんは、四十代の優しい女性だった。 五日間、ベッドに固定されて、食事もベッドでとった。やがて自由になり、食事もホールで皆ととるようになった。 ここはアルコール病棟だった。患者はみなアルコール依存症だった。それでも友達ができて、やがて自由に散歩もできるようになった。気楽な日々が続き、二十六日問で退院した。 しかし、日常生活に戻ると、まだ禁断症状は消えていなかった。何かおかしいのだ。わずか十七日間で再入院となった。今度は西棟の個室だった。そこにしばらくいた。 担当看護はNさんという、親切な男性だった。やがて六人部屋に移った。ここは軽症の患者の病棟だった。 そのうち先生が回診の時、 「ARPをやりませんか」 と言った。ARPとは「アルコールーリハビリテーションープログラム」のことだった。要するに暇つぶしだった。僕はやることにして東棟に移った。六入部屋だった。 ARPでは、グラウンドでソフトボールをしたり、体育館でゲートゴルフをしたり、高尾山に登ったりした。また、断酒会の人が来てミーティングをしたりもした。僕は六十歳になった時に酒はやめていたが、この断酒会はARPのI環なので参加した。 依存症の人は、一晩でボトル一本を空けたり、日本酒をどんぶりに並々と入れて一気に飲みほすほどに飲んでいた。飲酒欲求を消す薬はなく、断酒するには、友達づくり、先生、抗酒剤が三本柱といわれていた。しかし断酒できるのは二、三割の人で、依存症の人の平均寿命は五十二歳といわれていた。 看護師の志乃さんの姿は時折見かけた。たまには話もした。 「年はいくつですか」 「いくつだと思います?」 「二十五歳?」 「ビンゴー」 美人だと思ったが、僕はあまり気に留めていなかった。それより友達と話をするのに夢中だった。 カーマニアが集まって話をした。湾岸道路には十キロの直線道路があるという。そこで朝の三時から四時まで、スピードレースするのだという。 ポルシェをチューンアップして、時速三〇五キロ出すという若者がいた。彼はこれまで車を二十三台乗り替えたという。スピードウェイで、バイクで三〇〇キロ出して走った人もいた。 僕もカーマニアだった。平成六年式のスカイラインGTをチューンした。二五〇〇ccのエンジンの、ターボの過給圧を上げて、スピードーリミッターを切り、レーシングープラグに替え、給排気系も替えて、時速二四〇キロ出るようにした。その車で、十和田湖まで、母を乗せて走った。母はそんな高速でも平気だったから、スピード狂は母親譲りだったかも知れない。 やがて、三ヵ月半がたち、僕の禁断症状も消えて、僕は退院した。 一年以上がたち、僕は六十三歳になった。 兄が時々、様子を見に来ていた。ある時、何を思ったのか、 「先生と話をしよう」 と言った。僕もあまり気にせずに、先生に会いに行った。 診察室で、先生と兄と三人で話をした。何を話したのかまったく分からなかった。 先生が1ヵ月任意入院の書類を差し出したので、それに署名して入院が決まった。 家に帰って、入院の準備をして、病院へ行った。係の人が案内してくれた。別館の西棟の二階の六人部屋の窓際のベッドだった。僕は担当看護師の札を見て驚いた。 「北山 志乃」 となっていた。あの別館一の美人だ。 しばらくして、ケースワーカーのSさんが来た。彼女も美人で人気があった。 「どうして人院したんですか」 「分からないんです」 と言うとびっくりしたようだった
やがて、志乃さんに会った。 「お久しぶりね」 「また会えましたね」 病院の朝は早い。朝六時起床、ラジオ体操をして、八時に朝食、十二時に昼食、夕食が六時、九時に薬を飲んで寝る。先生が、 一〇Tを二つ取ってください」 と言った。OTとは作業療法のことだ。担当のTさんがやって来た。三十前、目のくるりとしたスタイルのいい女性だ。彼女の案内で、OTを見て回った。僕は、リラクゼーションションとカラオケを選んだ。 リラクゼーションは、足湯につかり、お茶を飲みながら雑談をして、畳の部屋で横になり、ストレッチをする、一時間半のプログラムだ。カラオケは普通のカラオケだ。僕は、好きな歌を歌った。 朝食が済むと、体温と血圧を計る。志乃さんが来ることもあった。 「どこから来たんですか」 「神戸です」 「神戸から高尾まで来たんですか」 「ええ、就職活動で来ました」 「大変でしたね」 「そうでもありません」 この病棟の患者は皆、症状が軽い。 「食事がうまくとれないんです」 と言う人や、 「右の肩がしびれるんです」 と言う人もいた。暇な時は雑談をしていた。自由散歩も許されていた。優雅な生活だった。 志乃さんが夜勤の時は看護師室で話をした。他の病棟では、患者は看護師室に入れない。症状が重い人が多いからだ。ここは別だった。 「身長は何センチですか」 「一六五です」 「高いですね。僕は一七六です」 「あなたも高いですね」 病院では寝る時パジャマに着替えない。普段着のまま寝る。だから二日に一回、着替える。洗濯は自分でしなければならない。時々志乃さんがしてくれる時もあった。シャツもパンツもだ。僕は彼女が好きだった。彼女も同じだったと思う。 やがて入院して1ヵ月になろうとした頃、僕にインフルエンザの疑いがかかり、個室に隔離された。退院が延びた。志乃さんが様子を見に来た。 「お休みの時は何をしていますか」 「この間は出かけていました。朝五時に起きて、あちらこちら行ってきました」 「若いから元気ですね」 「ええ、元気です」 しばらくして、インフルエンザの疑いが晴れて、大部屋に戻った。 優雅な生活が続いた。OT、雑談、散歩、志乃さんとの会話。 若者と話をした。 「連合艦隊は知っていますか」 「知っています」 「なぜ連合艦隊というか知っていますか」 「知りません」 「連合艦隊とは、戦艦が第一艦隊、空母が第二艦隊、巡洋艦が第三艦隊、駆逐艦が第四艦隊と、第七艦隊まであるんです。それを総称して、連合艦隊というのです」 「へえ1、初めて知りました」 ある時、うつ病の人が言っていた。 「私はT病院に入ったことがあるんですが、あそこでは患者同士、話が通じないんで す。症状が重くて、何を言っているのか分からないんです。ここは違いますね。話が出来ます」 「ここは。Kホテル”といわれているんです」 「そうですか。いいところですね」 僕は夜九時に寝ると午前二時に目がさめてしまう。この精神科病院では、夜寝る前に患者全員に睡眠薬を飲ませる。一斉に眠らせるためだ。僕も飲むが、二時には目覚めてしまうのだ。 ホールでぶらぶらしているが、志乃さんが夜勤の時は話をした。 「薬を自己管理にしようと思いますがどうですか」 「いいですよ」 「大丈夫ですか」 「大丈夫です。子供じゃありませんから」 こうして、薬は自己管理になった。小さなプラスチックの箱に入れて自分で持っていて、薬を飲がむ時は看護師室の人口へ持っていき、スタッフの前で飲むのだ。 「自己管理です」 と言うとスタッフが名前を確認して、 「どうぞ」 と言われてから飲むのだ。 やがて入院も二ヵ月になろうとした時、先生に呼ばれた。 「肝機能が悪化しています。薬を変えます」 また退院が延びた。志乃さんは、 「早く分かってよかったわね」 と言った。 優雅な生活が続いた。 OT、散歩、雑談、志乃さんとの会話。K「ホテル」。 三ヵ月目が終わりに近づいた頃、先生に呼ばれた。 「来週退院です」 僕は退院した。志乃さんが言った。 「外来で会えるわね」 何度目かの外来の時、診察室から出てくると受付に志乃さんがいて、僕に気がついてて急いで近づいてきた。 「髪の形、変えたの?」 「そう」 「分からなかったよ」 別れ際、彼女は強く手を振った。僕も手を振った。 それが、彼女に会った最後だった。 やがて彼女は結婚し、病棟も替わった。 今もK病院にいる。 しかし、六十六歳になる僕が後を追うわけにはいかない。 やはり、彼女は高嶺の花だと思う。
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