ビンカ
ウィンドウズの壁紙でもおなじみのこの花は、ツルニチニチソウ。5~6月ごろ、庄内地方の日本海沿岸、庄内砂丘の松林をいろどって咲いている。花壇のいろどりに植えることも多いが、どうしてなかなかの繁殖力なのだ。原産は地中海沿岸。ラテン語の属名がVincaなので、園芸店の花にならってビンカと呼ぶことにしている。(カタバミはオキザリス、マツムシソウはスカビオサ?)ツルニチニチソウもいいけれど、長いのですぐ出てこない。ビンカならすぐ思いつくかも? ビンゴ!ってね。
ところで今朝のラジオ(NHKすっぴん)の、宮沢章夫のサブカルチャー講座で、60年代、70年代の新宿を取り上げていた。アングラ劇にしても映画にしても新宿抜きには語れないと。
なにげなく聞いていたけれど、新宿と聞いちゃあ、黙っちゃいられない。新宿の高層ビルに朝日が当たると、長く伸びた影にすっぽりと入ってしまうような町でぼくたちは育った。いやまだ高層ビルはなかったけれど。というか、あのビル群があった場所は、当時淀橋浄水場という広大な水瓶だった。一度だけ忍び込んだことがあるが、カモがのんびり泳いでいたっけ。
淀橋という小さな橋を渡ると新宿で、その橋は神田川というドブ川(当時)にかかっていた。南こうせつの『神田川』はもっと下流の、おそらく面影橋あたりが舞台だと思うけれど、あなたはもう忘れたかしら?
ぼくの家のテレビは、ときどき家出をしてよその土蔵にこもるくせがあったので、ラジオだけの寂しい夜が多かった。新宿方面は星も見えないほど空が赤く染まり、ときどき蒸気機関車の長い汽笛が聞こえてくるのだ。将来に不安しか描けない少年にとって、あの音はたまらない。新宿、代々木間にあった操車場から聞こえる音だったのだろう。
学生のころ、「新宿文化」にATG映画を見にいったものだ。新宿文化の横を入ると、寄席の末広亭だったね。「新宿文化」は新宿にある「文化劇場」だと思っていたのだが、今朝の放送を聞いているうちに、もしかしたら「新宿文化」という劇場なのかもしれないと思った。あの地下には三島由紀夫の『黒蜥蜴』などを上演した蠍座があった。
「文化」と言えば渋谷。東急文化会館、東京文化学園、文化村。猫も杓子も「文化」とつくのは偶然ではなく、鉄道、まちづくりなど総合的な開発を掲げた運動が背景にあるらしい。
あのつんとすましたような渋谷(東急)文化に対抗しての「新宿文化」だったのだとしたら、ちょっとおもしろい。
とにかくぼくたちが10代だったころ、渋谷は苦手だった。気取った感じが馴染めなかったし、放射状に広がる町というのは、中心に戻らないと次に進めない。無計画に歩きまわるには都合がわるいのだ。
一方の新宿は、猥雑でごたごたした雰囲気は強かったが、やはり育った場所に近いという安心感か、心が落ち着くのだった。
思い出したのだが、ぼくたちが幼かったころ、中野坂上あたりは焼け野原だった。塀や鉄条網で囲まれてはいても、雑草と瓦礫の荒野が広がっていたのだ。焼け跡だと知らないぼくたちはそこをただ「原っぱ」と呼んで、毎日を転げまわって遊んだのだが、成長するにつれ、急速に消えていった。ぼくたち一家の家も、一家が追い出された後、たちまち取り壊されてビルになってしまった。
一方、新宿には広大な荒野が出現する。淀橋浄水場の跡地である。今、副都心になったあのビル群は、一度、戦場のような荒野になったのだ。
学生のころ、まだ10代だったピーターが主演したATG映画『薔薇の葬列』を新宿文化で見たが、背景には新宿西口に実在するその荒野があった。日本の高度成長の裏の、なんとしても隠しておきたいもの(集団就職、釜ヶ崎や山谷の日雇い労働、農地を奪われる三里塚農民、ベトナムetc.)を、その荒野が象徴しているように思えた。いや、当時の創作家たちも新宿の風景をそのように見ていたのではなかろうか。
たまに上京(自分がこんな言葉を使うとはね。)すると、もはや新宿は外国のようだ。そんなときは地下道(地下街ではなく)に入るに限る。おおむね昔のままの地下道が残っていて、迷わずスピーディーに移動することができる。
そして中野坂上。こんなに近かったのか?西口から20分で着いてしまう。もはや高層ビルの影に入る街ではなく、高層ビルの一部になってしまった。しかし、子どものころの自分がそこらにいそうな奇妙な感覚があって、背すじが寒くなる。
懐かしさを感じるとすれば、車のナンバーが「練馬」であること。「国籍不明の超高層なビルの町になっても、いまだに練馬かよ、嬉しいねえ!」と心のなかで悪態をつくのだが、車のナンバーにさえ序列をつけたがるさもしい東京人の根性は、いまだに心中に根を下ろしているようだ。(へっ、東京人だって?お前近ごろ、在日東北人だと言ってなかったか?)