アマドコロの花。まだ開いてはいないのですが。斜めに差し込む朝日や夕陽を受けて、レトロな商店街の街灯のようにほんのり光って見えます。
ミニサイズのユリ、チゴユリが群生している場所があります。のぞいているオシベの頭が大きく見えるのは、花全体が小さいからです。もちろんアングルファインダーの出番で、下から見上げて撮影しました。
さて前回、NHKについてぼやいてみたけど、ぼやき足りない気がして不完全燃焼。そこで、まとめてぼやき直してみました。以後、文体が変わります。
「NHKなんで」。人気のコント番組「LIFE!」でNHK職員に扮する内村光良の決め台詞だ。NHKなもんで。なかなか意味深ではないだろうか。NHK関係者が抱いているであろうプライド、NHKならではの品位。それとも自虐? ははん、自虐ギャグ?(滑舌が自慢のアナウンサーなら言えますね。自虐ギャグ。もっとも先日、仙台局のアナウンサーが『青森県立美術館』を『あおもりけんりちゅ』とやってしまったけれど。)
とにかく「NHKなんで。」これは使えそうだ。
まず、「寄贈」ということばは「きぞう」ではないのか? しかしNHKのニュースなどではなぜか「きそう」と言う。以前、NHKにメールを送って問い合わせたところ、仏教用語かなにかで「きそう」というれっきとした読みがあるのだそうだ。しかし一般的ではないし、国語の教員でも知っているの人がどれほどいるだろう? ぼくなら☓にしていると思う。NHKが言ってましたと抗議されて、頭に来て生徒と大げんか、てなことになるのはまちがいない。なにより返信が、言い訳以上の「きみたちは知らないのか?」的な態度で気に障った。高姿勢。NHKなもんで。
「見させてもらう」は文法的におかしいし、意味が違ってしまうのではないか。たとえ流行していることばでも、安易に迎合せず、正しいことば遣いを心がけて欲しいとメールしたら、これまた「文法的に間違いとはいえない」との反論が返ってきた。しかし「あなたのノートを見せてください」と「AさんのノートをBさんに見させてください」では意味が違う。それがわからないようならことばのプロとは言えないのではないだろうか。「見せる」は他動詞、「見させる」は自動詞「見る」に使役の助動詞「させる」がついたものだ。ここでも、決して謝らない高姿勢が気に障る。NHKなもんで。
地方の子どもたちや若者は、想像以上にテレビに敏感だ。テレビが言うことばが彼らのことばの教科書なのだ。(うそだと思うのなら、アニメオタクの外国人を見るがよい。彼らは日本のアニメを教科書にして、見事な(日本人中高年より見事な)日本語をあやつる。それも若者ことばを。テレビで芸能人や芸人(今や芸人はあこがれの職業の一つだ)、アナウンサーのしゃべることばが、若者が見習うべきモデルになっている。
情けないのは、若いアナウンサー、いや時にはベテランアナウンサーさえも、これら若者ことばに迎合しているように見えることだ。地方出身のアナウンサーもまた、これらのテレビ標準語を母語として育ってしまったため、ことばの規範意識が乏しいように見受けられる。
特に敬語がひどい。尊敬語は「られる」さえつければよいと思っているのか、「B級グランプリのの焼きそば、もう食べられました?」なんて平気で言う。「召し上がる」や謙譲語の「いただく」は死語になったらしい。だから「ワンちゃん、きもちよさそうにされてますね」なんていうのはジョークですらないらしい。「きもちよさそうになさってますね」だったらさすがにおかしいと思うだろうに。
アナウンサーは、自分の話すことばが日本語の標準なのだというくらいのプロ意識は常に持っていてもらいたいものだ。NHKなんで。
熊本地震に関して、籾井会長がNHKの対策本部で、「原発報道は公式発表をベースにせよ。有識者の発言は国民に不安を与えるから報道するな。」と指示していたという。政府が右というものを左とは言えない籾井らしい姿勢ではあるが、籾井一人を悪者にしてよいものだろうか。
もともとNHKには国営放送的な姿勢があり、この姿勢が目立ったりひっこんだりを繰り返してきたのではなかったか。70年安保のころ、デモから帰ると、ニュースでデモをどう報道するかが気になったものだ。NHKは必ず機動隊側から望遠でデモを撮っていたし、デモの学生を「一部過激派」と呼び続けたものだ。学生側にインタビューをすることさえ、決してしなかった。もっとも私たちもNHKの腕章をつけた記者には「イヌエッチケーは帰れ!」と罵倒したので、感情的によい印象を持っていなかったのかもしれないが。
近ごろ、アナウンサーを含めてNHK職員が、NHKを「会社」と呼ぶ。国営放送ではないという意識の現れなのかもしれないが、会社なら、顧客は聴取料を払う私たちだ。ぜひ、お客様を大切にしてもらいたいものだ。また顧客である私たちも、不満や意見はどしどし発言すべきだと思う。時には不買運動もあり得る。
公平、公正な放送とは、政府と国民の間で中立の位置を模索することではなく、視聴者(つまり顧客)である私たち(もちろん無色透明なフツーの市民など存在しないのだから、様々な立場、考え方があるのは前提である。)に立脚すべきであろう。NHKなんで。