中学生は怖い話が好きだ。しかし、ぼくには霊感とかいうやつがないので、その手の経験はほとんどなく、子どもたちを白けさせることが多かった。持ちネタは、実際に経験した新宿戸山町の「謎の臓器標本」とか、山道を一人で歩いていると、風や水の音が人の話し声に聞こえることや、そんなことかな?
キャンプの引率のとき、女子のグループから「夕べ見回りに来たでしょ」と言われて、びっくりしたことがある。女子の泊まっているところは女性職員が巡回したのだから、男のぼくが行ったとしたら「不祥事」になってしまう。しかし、「早く寝ろ!」と外から聞こえたのは確かにぼくの声だったというのだ。ぼくは知らないうちに生霊になったのか?
この話も、後に持ちネタの一つになったが、怖いと思うのは本人だけで、子どもたちは「やっぱり行ったんでしょ?」とニヤリ。信用がまるでない。
東日本大震災後、被災地ではいわゆる怪談が多く語られるそうだ。しかしそれは「遠野物語」と同じように、日常の一コマのように語られ、怖い話にはならない。むしろ亡くなった人とのつながりを求める心情が生むものなのかもしれない。座敷わらしが今なお生きている、それが東北の現在である。酒田でも、ふとした話の中に「あの家は、霊の通り道になっていてね」なんていう話が出てくることがあるのだ。
だから、これから書くことも、東北では普通のことなのかもしれない。
先日の夜、台所で洗い物をしていたら、視界の隅に、廊下を犬が歩いていくのが見えた。我が家の迷犬ハッチは、人間がお茶の準備をしたり、好物の野菜を切っていたりすると、さりげなく廊下をうろうろして関心を引こうとするのだが、そんな感じで廊下を横切ったのだ。
しかし、そのときハッチは既にクレートに入って熟睡していた。それに、爪が床に当たる足音だってしなかった。幽霊か、犬の? でも別に怖くないのは、ここが東北だからか?
それが一月ほど前のことで、その後忘れていたのだが、昨日はこんなことがあった。昼間読書に疲れ、ちょっと床に横になった。ハッチも無理に引っぱりこんで脇に抱いた。ハッチは迷惑そうに目をひんむいていたが、やがて眠ってしまった。ぼくもちょっとウトウトしたようだ。そのとき、ぼくの首を柔らかい毛皮がなでたので目が覚めた。ちょうど抱いていた犬が顔を近づけて甘えてきたような感触だった。
しかしハッチはすやすやと眠っている。やつは前足をつきだして人の顔を殴るので、抱いてはいるが距離を開けている。顔を近づけないように手を突っ張っている。だからさっき触れたのはハッチではない。ビーグルの毛はゴワゴワしていて、さっきのように柔らかくはない。あれ、ではあれは?
そうか、この前廊下を歩いていたやつが、また出てきたのか。人に甘えたくて時々出てくるのかもしれない。
この家にはどうやら座敷わらしが住み着いたらしい。それも犬の座敷わらし。愛されずに死んだ子どもの霊が座敷わらしになるように、愛に飢えた子犬がいたのだろうか。
座敷わらしが住む家は幸運に恵まれるというけど、座敷わらし犬の場合はどうなんだろう?
カラスアゲハ