住心山 正法寺山号: 住心山(じゅうしんざん)
院号: 周清院(しゅうせいいん)
寺号: 正法寺(しょうぼうじ)
宗派: 浄土宗
本尊: 阿弥陀如来
本山: 知恩院(京都)
宗祖: 法然上人
開山年: 慶長19年(西暦1614年)
開山: 円蓮社満誉善空上人(えんれんじゃまんよぜんくうしょうにん)
月影の いたらぬ里は なけれども
ながむる人の 心にぞすむ
法然上人のみ教え 引用元:総本山 知恩院のホームページ
月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ
この和歌は法然上人が詠まれた「月かげ」のお歌です。
月の光はすべてのものを照らし、里人にくまなく降り注いでいるけれども、月を眺める人以外にはその月の美しさはわからない。阿弥陀仏のお慈悲のこころは、すべての人々に平等に注がれているけれども、手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える人のみが阿弥陀仏の救いをこうむることができる・・・という意味です。
法然上人は「月かげ」のお歌に、『観無量寿経』の一節「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」のこころを説き、私たちにお示しくださったのです。
法然上人の教えは、厳しい修行を経た者や財力のある者だけが救われるという教えが主流であった当時の仏教諸宗とは全く違ったものでした。
「南無阿弥陀仏」と称えればみな平等に救われる・・・。法然上人のみ教えは貴族や武士だけでなく、老若男女を問わずすべての人々から衝撃と感動をもって受け入れられ、800年を経た今日も、そのみ教えは多くの人々の「心のよりどころ」となっているのです。 |
法然上人
法然 wikipediaより
法然(ほうねん、長承2年4月7日 (旧暦) 4月7日(1133年5月13日) - 建暦2年1月25日 (旧暦) 1月25日(1212年2月29日))は平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧侶で、浄土宗の開祖。円光大師とも言われる。法然は房号で、諱(いみな)を源空(げんくう)という。浄土真宗七高僧の一人。 法然の大師号は現在「円光(東山天皇1697年)・東漸(中御門天皇1711年)・慧成(桃園天皇1761年)・弘覚(光格天皇1811年)・慈教(孝明天皇1861年)・明照(明治天皇1911年)・和順(昭和天皇1961年)」大師としており、50年ごとに天皇より名を頂戴する。 美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使、漆間時国(うるま ときくに)の子として生まれる。幼名は勢至丸。9歳のとき、源内武者貞明の夜討によって父を失うが、その際の父の遺言によってあだ討ちを断念する。15歳の時に比叡山の皇円について得度。比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名のる。承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観経疏』によって専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを弘めた。この1175年が浄土宗の立教開宗の年とされる。
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浄土宗
浄土宗 wikipediaより
浄土宗(じょうどしゅう)は、法然上人が開祖である、浄土教専修念仏を宗旨とする日本の仏教宗派の一つ。 法然 勢至丸(後の法然)は父の漆間時国の遺言通り僧侶になる事を誓う。 比叡山に登る前、叔父の菩提寺という寺院に行った。そこの住職の観覚上人の下で勉学に励んだ。 しかし、4年の歳月が過ぎ師僧の観覚上人から「お前に教える事はもう何もない、比叡山に行ってはどうか」と言われ、勢至丸は比叡山へわずか13歳(1145年)で行く事となる。 その後、叡山根本中堂に於いて源光上人より学ぶ。また、源光上人が勉学を教えられなくなり、皇円阿闍梨の下で学ぶ。ここで勢至丸・15歳(1147年)、正式に得度する。
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沿 革 江戸初期 駿府(静岡)の
宝台院の末寺として、1614年 (慶長19年)大阪冬の陣の年、日本橋馬喰町に円蓮社満誉善空上人によって開創された。
1657年(明暦3年)の振袖火事で罹災し、浅草の新寺町に移転した。
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正法寺 古地図 江戸時代】
江戸中後期 庶民に親しまれた「水掛地蔵」は、江戸東方四十八ヶ所地蔵尊参りの第三十一番目札所に挙げられていたが、1923年(大正12年)の関東大震災で堂宇焼失とともに3尺の石像も倒壊してしまった。
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正法寺 地図 明治時代】
1925年(大正14年) 豊多摩郡野方村大字江古田(現在の地)に堂宇を再建したが、「水掛地蔵」は移すことができなかった。
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正法寺 地図 昭和22・38年】
1945年(昭和20年5月) 第二次世界大戦の空襲により再び堂宇は焼失し、1948年(昭和23年)に仮本堂を建築し、1956年(昭和31年)に本堂の再建がかない現在に至っている。
西武新宿線 沼袋駅から徒歩8分
JR中野駅北口 関東バス「江古田駅行き」「練馬駅行き」
「江古田二丁目」下車徒歩1分
宝台院ホームページhttp://www.houdaiin.jp/history.html